ハッピーアワーサイレンス
私は幸せを態度で示すのが苦手だ。
子供の頃からそうだった。両親から誕生日プレゼントをもらった時も、テストの点数が良かったことを褒められた時も、私はどうリアクションすれば良いのか分からなかった。そんな私を見て両親はいつも苦笑いを浮かべていた。私だって嬉しくないわけではなかったのに。
そもそも幸せとは一人で静かに噛み締めるものだ。静かに喜んで何が悪いというのか。テレビで見る芸能人はまるでアニメのキャラクターみたいに大袈裟に喜んだり飛び跳ねたりしている。あれはあくまでテレビの世界のショーなのだから、現実世界に生きる私にまでそんな風なリアクションを求められても困るのだ。仏頂面でプレゼントの箱を抱えた小学生の私はそう考えていた。
学生になって人間関係が広がると、なかなかそういう考えを貫くのも難しくなる。他人から祝われるたびに、私はどのようにリアクションをすべきなのか迷うようになった。いっそ演技でもすれば良いと友人は言ったが、それは嘘や打算のようで気が進まないし恥ずかしい。
私はだんだん他人からプレゼントをされたりお祝いをされたりすること自体が億劫になっていった。幸せは自分一人で静かに感じていれば良いのだ。
だから彼から誕生日に花束をもらった時にも、私は嬉しさよりも迷いや困惑を感じてしまった。
プレゼントはいらないと言っていたのに、優しい彼は私を祝い、花を贈ってくれた。そのうえ彼は私が喜びを表現することが苦手だと知っていたので、私のリアクションが薄くても気にした様子は無かった。私は少し申し訳なく思いつつも、彼の気持ちを静かに受け取った。
でも次の日、自分の部屋に飾られた花を見て、本当にそのままで良いのかという思いが湧いてきた。彼は何も言っていなかったけれど、プレゼントのあげ甲斐が無い女だなと思われなかっただろうか。余計なことをしたかななどと反省したりしていないだろうか。私は態度にこそ出せなかったけれど確かに幸せを感じたのに。私が感じた幸せを彼に伝えなくて良いのだろうか。
3日ほどして、私たちはまた一緒に食事をした。私たちは静かに穏やかに、でも確かに楽しい時間を過ごした。
彼がお手洗いに立つのを待って、私は家から忍ばせてきたものをそっと彼のカバンに入れた。彼は駅で別れるまでそれに気付くことはなく、私はひとり帰路についた。
私が彼に贈ったのは手紙だった。私が彼のプレゼントをどんなに喜んでいるか、どれくらい幸せな気持ちになったか、それをうまく表に出せずにどれほど申し訳なく思っているかを書いた。私にできそうなのはそれくらいだった。
プレゼントのお返しに手紙なんて、おかしいだろうか。重い女と思われるだろうか。あるいは暗いと感じるだろうか。私はどんな文章を書いたっけ。申し訳なさを伝えるところに分量を裂きすぎた気もする。夜道を一人で歩いていると急に後悔が募った。
でも手紙を書いている時、私は確かに幸せだった。幸せを態度で示すのは苦手だと思っていたのに、その幸せを誰かに伝えること自体が幸せだと感じるのは不思議な感覚だった。自分の気持ちを誰かに伝えたいとこんなに純粋に思えたのは初めてだった。
次に彼に会うのが恐いような楽しみなような複雑な気分で歩いていると、カバンの中でスマホが震えた。彼からの電話だった。微かに震える手でスマホを耳に当てる。
彼は帰り道の途中で手紙に気付き中身を読んだようだった。まだ駅にいるのか、彼の後ろで雑踏と改札の音が遠く聞こえる。
彼の照れた笑い声が私にも伝染して、私も自然と笑顔になった。二人とも照れながら話しているのがおかしかった。
彼から幸せを贈られて、それを返して、また返されて。ただそれだけだ。私は自分の気持ちをただ相手に伝えれば良かったのだ。静かな夜の下で私は幸せだった。
電話を切って、上気した顔を手でぱたぱたと仰ぐ。おそらくにやけた表情をしているであろう私の顔を、すれ違う野良猫が不思議そうに見ていた。もしかしたら私は自分で思っているほど幸せを隠せていないのかも、と思ったりした。
お読みいただきありがとうございます。
いつもは短編でも5000字越えになってしまうことが多いので、今回は2000字以内を目標に書いてみました。
作者も正直、他人から祝われたりプレゼントをもらうのが苦手だったりします。
どうリアクションすれば良いのか迷うというのもありますが、そもそも感情表現が苦手なのに妙に他人に気を遣ってしまうというか……。
どうにかした方がたぶん良いよな、と思いつつ、しかしそれもまた個性であるとも思うのです。
なので、主人公にはそうした葛藤の折衷案的なものを見つけてもらうことにしました。
作者ながら自分も見習わなくては、という感じです。
面白いと思っていただけていれば幸いです。
ありがとうございました。




