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第5話JAXA

 8月が終わり、9月となった。


 長年の異常気象の影響で、日本の季節感は大きく変わり、春と秋はほとんど消失してしまった。9月に入っても猛暑の残酷さは変わらず、日差しは容赦なく降り注ぎ、空気はじりじりと焼けるような熱を含んでいた。道端の木々はその緑を失い、枯れた褐色の葉が道に散らばり、空は透き通るような蒼さを漂わせていた。街の風景は、荒涼とした色合いに変わり、人々は暑さにじっと耐えながらも、気候変動の悪化に対する不安を深めていた。


 設楽慎二は今、東京都調布市深大寺東町に立っていた。その目的地は、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構、通称『JAXA』の本社である。広大な敷地に立つ見たことのない巨大な施設群は、未来の宇宙への夢と希望を体現しているように見えた。


「ついにここに来た……!」


 慎二は、自分の目の前に広がるその壮大な景色に胸が高鳴るのを感じた。ここが、数えきれないほどの夢と努力が交錯する場所であることを実感し、深い感動に包まれた。胸の内で漠然とした不安が浮かぶも、彼はそれを振り払うように、強い決意で心を奮い立たせた。


 火星移住プロジェクトへの当選から、殺人現場の遭遇、不気味な人物の訪問など、慎二は怒涛の非日常を過ごしてきた。実家への帰省や、殺人現場遭遇から警察に紹介された無料カウンセリングを受けたことで、慎二のメンタルは徐々に回復しつつあった。そして、このJAXA本社へと到着したことで、今までの不安は吹き飛び、新たな希望が胸に広がっていた。


 周りを見渡すと、ポツポツと人々の姿が見られた。男性ばかりかと思いきや、女性の姿もあり、彼らの服装は様々だった。ラフな私服姿の人もいれば、カジュアルなスーツ姿の人もおり、みなそれぞれの期待と不安を抱えているようだった。慎二もまた、その中に溶け込みながら、胸の中に強い決意を抱いていた。


 二週間前、『火星移住プロジェクト』の日本に在住する参加者全員に一斉メールが送られた。その内容は、日本に住むプロジェクト参加者は、9月第一週の日曜日にJAXA本社へ集合し、『火星移住プロジェクト』の訓練の開始時期から、火星へと出発するまでの流れを、簡単に説明するというものだった。


「プロジェクト参加者の皆様は、この看板に沿ってお進みくださーい!」


 JAXAの制服に身を包んだ案内人の女性が、明るい声で参加者たちを案内していく。彼女の口調には、親しみと礼儀が込められており、慎二はその丁寧な対応に安心感を覚えた。


 参加者たちは、普段展示場も兼ね備えた入り口のさらに奥、職員でなければ立ち入ることのできない敷地の奥へと進んでいく。


「すげぇ……」


 慎二は思わず感動の言葉が口から自然と漏れる。自分がこの場所に立っていることが夢であるかのような感覚になっていた。


 しばらく歩くと、JAXAの本社機能を有する建物の中に案内された。建物内部は未来的なデザインで整えられ、外の暑さとは対照的にひんやりとした空気が流れていた。慎二は冷えた空気に心を落ち着かせながら、これから始まる新たな一歩に胸を高鳴らせた。


 受付で本人確認の生体認証を行い、手続きを済ませると、案内人の一人が何人かのプロジェクト参加者を束ねてエレベーターへと導いた。エレベーターの中で、慎二はこれからの未来への希望と、それに伴う不安が入り混じる心のざわめきを感じていた。


 そして、エレベーターが目的の階に到着し、案内人に従って大ホールへと向かうと、すでに多くの参加者が到着し、指定された席に座っていた。


 ホールに足を踏み入れた慎二は、目の前に広がる壮大な空間に圧倒された。天井は高く、未来的なデザインが施された壁には、まるで宇宙を連想させるような青いライトが柔らかく反射していた。参加者たちの静かなざわめきが響き渡る中、慎二は自分の席に腰を下ろし、心臓が高鳴るのを感じた。


 ふと、ホール内が徐々に静まり返り、周囲の照明がゆっくりと落とされた。薄暗くなった空間には、緊張感と期待が一層高まり、まるで新しい冒険が始まる前の静けさのようだった。


 突然、ホールの中心にあるステージがライトアップされた。穏やかで落ち着いたブルーのスポットライトが一つ、壇上を柔らかく照らし出す。その光は静寂を伴い、まるで宇宙の深淵から湧き上がるような神秘的な雰囲気を醸し出していた。周囲の薄闇がライトに溶け込むように広がり、慎二の目には一層鮮やかに映った。


 慎二は思わず息を呑み、その瞬間を見逃すまいと前のめりになった。彼の心臓の鼓動は早まり、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。


 そのとき、一人の人物が壇上に姿を現した。中年の男性で、堂々とした立ち姿が印象的だ。彼の歩みはゆっくりとしていたが、一歩一歩が確実に、そして重々しく感じられた。その存在感は、まるで地球の重力をも感じさせるかのように重く、慎二はその人物が壇上に立った瞬間から目が離せなくなった。


 黒いスーツに身を包んだその男性は、真剣な表情で参加者たちを見渡した。彼の鋭い眼差しが会場全体を捉え、その場にいる全員の視線を一瞬で奪った。慎二の心は、期待と緊張が入り混じりながら高鳴っていくのを感じた。


 壇上に立った男性は、静かにマイクの前に立ち、少しの間を置いてから、深く息を吸い込んだ。その瞬間、ホール全体がぴたりと静まり返り、慎二の胸の鼓動が一層速くなるのを感じた。空気が凛と引き締まり、緊張感がさらに高まる。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」


 その低く響く声がホール全体に広がると、慎二はまるで宇宙の広がりに引き込まれるような感覚を覚えた。声の響きは重厚で、空間全体に深く刻まれた。彼の言葉一つ一つが、慎二の心に強く響き、これから始まる火星移住プロジェクトの壮大なスケールが現実のものとして迫ってきた。


「私は、『火星移住プロジェクト』の日本責任者、袴田はかまだ豊寛とよひろです」


 袴田の名を聞いた瞬間、慎二の中で期待が爆発的に膨れ上がった。彼の名前は、これまで何度もニュースや記事で目にしてきた。宇宙開発に情熱を注ぎ、数々の日本の宇宙プロジェクトを成功に導いてきたその人物が、今、自分の目の前に立っている。慎二の心は、その重みを感じつつも、これから何が語られるのかというワクワク感で満たされていった。


 袴田は、鋭い眼差しで会場を見渡し、再び口を開いた。


「皆さんがここにいること、それ自体が歴史的な一歩です。これから皆さんと共に、火星への旅路を歩んでいくことを、大いに楽しみにしています」


 その言葉に、ホール全体が一瞬にして一体感に包まれた。慎二は胸の中で、希望と興奮が高まり、未来への道が開けていく感覚を強く感じた。彼はこの瞬間を、まるで自分の人生の中で最も重要な場面の一つとして、心の奥深くに刻みつけた。


 慎二は、これから『火星移住プロジェクト』の詳しいスケジュールが説明されるのだと思った。その期待に胸を膨らませていると、袴田が再び神妙な面持ちで口を開いた。


「さて、『火星移住プロジェクト』に参加する皆さんに話す前に、一つ、説明しなければなりません」


 その言葉に、会場内が少しざわめいた。慎二もまた、突然の緊張感に包まれ、何が語られるのかと固唾を飲んでその場を見守った。袴田の表情と雰囲気が相まって、会場全体が一瞬にして重苦しい空気に包まれた。


 慎二は無意識のうちに息を詰め、袴田の次の言葉を待った。自分が何か重要なものを見逃しているのではないかという焦りが、胸の奥でじわじわと広がっていた。


「そもそも、全世界が一体となって、莫大な資金と時間、そして命がかかる『火星移住プロジェクト』を推進している理由。皆さんはご存知でしょうか?」


 袴田の問いかけに、会場全体が凍りつくような静寂に包まれた。慎二は、これまで一度も疑問に思ったことのなかった事実を突きつけられ、頭の中が混乱し始める。

 確かに、『火星移住プロジェクト』は世界中の国々が協力して進めているものだ。それまで対立していた国々が一つの目標のために協力する姿勢を見せたことは、異例中の異例であり、慎二もその重要性を理解していた。特に今まで独自路線を走っていた中国やロシアまでが突然、協力的になっていた。

 だが、なぜそのような大規模なプロジェクトが急に必要となったのか、世間に報道されることも、その背景を深く考えたこともなかった。


 慎二は、今になって初めてその疑問に向き合わされることとなり、袴田の言葉が重くのしかかるように感じた。今まで疑問を持たずに受け入れてきた『火星移住プロジェクト』の真の意味とは、一体何なのか。心の中で答えを探ろうとするが、明確な答えは見つからなかった。


 その瞬間、袴田の声が会場全体に響き渡った。


「地球の土地が足りなくなったから?」


 その問いが投げかけられると、慎二は思わず息を呑んだ。確かに、人口増加による土地不足は深刻な問題だ。だが、それだけで独自路線を走っていた中国やロシアが協力するとは思えない。


「100億人を超えた人類を養うため?」


 続く言葉に、慎二は再び思考を巡らせた。資源不足や食料危機。これらは現実に直面している問題だが、それでも何かが違うと感じた。


「火星に行きたいというロマンのため?」


 新しいフロンティアへの憧れと冒険心。その魅力が人々を惹きつけることは理解できるが、それだけでこのプロジェクトが正当化されるだろうか?慎二の疑念は深まるばかりだった。


「それらの理由は決して間違いではない。しかし、それだけでは、このプロジェクトの決定的な理由とはなりません」


 袴田の声が、鋭い刃のように参加者たちの胸に突き刺さる。会場全体に走った緊張感がさらに高まり、慎二は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。これまでの常識が覆される瞬間を直感的に感じ取っていた。


「では、なぜ『火星移住プロジェクト』を行うのか?」


 その問いかけが発せられた瞬間、会場の空気はより一層重くなった。慎二の心臓は高鳴り、全身が緊張で固くなっていく。それは会場にいる誰もが同じ心情であろう。


 袴田は一呼吸置き、その言葉に力を込める。


「《《世界滅亡の危機を救うためです》》」


 袴田の一言がホール全体に重く響き渡った瞬間、会場の空気が一変した。まるで見えない波紋が周囲を駆け巡り、慎二の胸に冷たい手が押し寄せるような感覚が広がる。参加者たちの間で低いざわめきが広がり、期待と不安が渦巻く。そのざわめきが、今まで信じていた『火星移住プロジェクト』の背後に潜む深い闇を感じさせた。


 慎二は周囲の動揺を感じながら、心の中で何度もその言葉を反芻した。本当に「世界滅亡」という言葉を聞いたのか? それが現実なのか? 彼の胸の鼓動が徐々に速くなり、緊張が体中を駆け巡る。周囲のざわめきが次第に強まり、彼の不安がさらに膨らんでいく。


 その時、袴田が鋭い声で一喝した。


「お静かに!」


 その声は嵐の中に響く雷鳴のように、会場内の喧騒を一気に収めた。再び静寂が戻り、慎二は息を飲んだ。冷たい汗が額に滲むのを感じながら、次の言葉を待つ。手は無意識に拳を握りしめていた。


 袴田は再び会場全体を見渡し、静かに、しかし力強く続けた。


「なぜ世界が滅亡に瀕しているのか。その理由は、現段階ではお話しすることはできません。しかし、その時がくれば、すべてをお話しすることになるでしょう。ただ一つ言えることは、火星には世界滅亡を回避するヒントがある、とだけ今は説明しておきます」


 袴田の言葉は重々しく、決意に満ちていた。慎二はその一言一言に込められた意味を必死に探ろうとした。語られない理由がある――それは、何か極めて深刻な事態が迫っているということだろうか?


 袴田は鋭い視線を参加者たちに向け、さらに声を強めた。


「この場には、莫大な報酬に惹かれた者、ただ興味本位で応募した者、大きな使命を持った者、そして火星移住というロマンに心を動かされた者。皆、それぞれの動機を持ってここにいることだろう。しかし、忘れないで欲しい! 我々は、世界を救う者となり、世界を導かなければならないのです」


 その言葉は、慎二の心に深く響いた。慎二はなぜこの場にいるのか、選ばれたのか、その理由が胸の奥で明確になっていく。単なる夢や希望ではなく、もっと大きな責任と使命が自分に課せられていることを痛感する。


 最後に袴田はゆっくりと会場を見渡し、計り知れない覚悟と自信を秘めた笑みを浮かべて締めくくった。


「さぁ、世界の運命を背負って火星に行こうではないか!」


 袴田の言葉には、強烈な決意と覚悟が込められていた。その一言がホール全体に響き渡ると、参加者たちの心は大きく揺さぶられた。まるでその言葉が、彼らの胸の奥深くにまで突き刺さり、心に火を灯すかのようだった。慎二もその一人だった。


 袴田の言葉が余韻を残しながら消えていくと、それまで彼を照らしていたスポットライトがゆっくりと消え始めた。慎二は、その光が薄れゆく様子をじっと見つめていた。スポットライトの消失に伴い、ホール全体を包み込むようにして、柔らかな照明が点灯し始める。慎二はその光の変化に、これから始まる大きな転換点を感じ取った。


 前方の天井から、静かにスクリーンが降り始めた。そのスクリーンに『火星移住プロジェクト』の今後の展望が映し出される様子を、慎二は一瞬たりとも見逃すまいと目を凝らした。ホール内の空気は、次第に次のプログラムへと移行していくのを感じ取ることができた。


 袴田は一歩前に進み出て、再び会場の中心に立った。その姿には、自信と決意が満ち溢れていた。一呼吸置いてから、静かにオリエンテーションを開始する準備を整える。


「さて、いよいよここからは、皆さんの火星移住に向けたスケジュールについてのオリエンテーションを行います。先ほども申し上げた通り、皆さんには世界の運命を背負っていただきます。心して聞くように……」


 袴田の言葉が静かにホール内に響いた。その瞬間、慎二は改めて自分が立たされている状況の重さを痛感する。これから始まる未知の挑戦に対する不安と期待が入り混じり、彼の心を複雑に揺さぶっていた――まさにその時だった。


 突然、ホール内に乾いた銃声が響き渡った。


 耳をつんざくようなその音は、瞬時に全員の注意を奪い、空気が一瞬で凍りついた。慎二の目は無意識に音の方向へと向けられる。その先には、今まで堂々と立っていた袴田が、まるで糸が切れた人形のようにゆっくりと崩れ落ちていく姿があった。


「え……?」


 慎二は一瞬、何が起こったのか理解できず、頭の中が真っ白になった。だが、すぐに視界の端に、異様な光景が映り込んだ。彼よりも前方に座っていた一人の少女が、冷静な表情で小さな拳銃を持っているのを見たのだ。セーラー服を着たその少女は、まるで日常の一部であるかのように、袴田に向かって銃を構えていた。


 慎二の心臓が激しく鼓動し、彼は信じられない光景を凝視した。その少女は何の躊躇もなく引き金を引き、袴田を撃ったのだ。少女の表情には、何の感情も浮かんでいないように見えた。それがかえって異様さを際立たせ、慎二の恐怖をさらに増幅させた。


 袴田の身体が床に崩れ落ちると、周囲にいた参加者たちが次々と悲鳴を上げ、ホール内は一気に混乱に包まれた。慎二は動けず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。少女の姿は目に焼き付き、何が起こったのか理解しようとするも、現実感が薄れ、全身が硬直してしまった。


 ホール内に轟いた銃声に続き、少女の冷酷な行動を目撃した参加者たちは、次第に恐怖と混乱に包まれていった。最初に誰かが悲鳴を上げたのを皮切りに、他の参加者たちも次々と叫び声を上げ、まるで止まっていた時間が一気に動き出したかのように、パニックが広がった。


 ホール内には「逃げろ!」「助けて!」という叫び声が響き渡り、参加者たちは一斉に出口へと向かって走り出した。重く緊張した空気が一気に解き放たれ、人々が我先にと逃げ惑う様子が広がる中、慎二はただその場に立ち尽くしていた。全身が硬直し、足がまるで地面に縛り付けられたかのように動かなかった。


 頭の中では、次々と新しい情報が錯綜していた。「何が起こっているんだ?」という問いが何度も浮かび、しかし答えは見つからない。目の前の光景が現実なのか、悪夢なのかすら分からなくなっていた。


 その時、会場の扉が突然激しく蹴破られ、複数の警備員が一斉に突入してきた。ホール内の静寂が一瞬で打ち破られ、参加者たちの驚愕の表情が一斉に浮かび上がった。警備員たちは訓練された動きでホール内を制圧し、即座に少女に銃口を向けた。緊張が高まる中、少女は逃げる素振りも見せず、ただ静かに立ち尽くしていた。まるでその場に立つこと自体に意味があるかのように、動じることなく、ただ前を見据えていた。


 次の瞬間、ホール内に数発の銃声が響き渡った。銃口から放たれた弾丸が少女の身体を貫き、彼女の小さな体が衝撃で揺れ、無防備に後ろへと倒れ込んだ。倒れた少女の姿を目にした瞬間、慎二の心に何とも言えない重さがのしかかる。その光景は、まるで現実感のない悪夢の一場面のように思えた。


 少女が倒れたその場所からは、かすかな苦しげな息遣いが漏れ聞こえてきた。警備員たちは素早く彼女に駆け寄り、彼女がまだ生きているかを確認しようとするが、その動きもどこか慎重だった。


 倒れた少女は最後の力を振り絞るように、わずかに口を動かし、低くかすれた声で呟いた。


「私たちの聖域には……決して、立ち入れさせない……」


 その言葉が彼女の口から漏れ出た瞬間、彼女の体は完全に力を失い、静寂が再びホールを支配した。慎二の耳には、その言葉が不気味に響き続けていた。少女が何を意味していたのか、その言葉の真意を理解することはできなかったが、その響きだけは彼の心に深く刻み込まれることになる。


 警備隊が事態の収集に動こうと慌ただしく動き始めようとした、その時だった。ホールの静寂を突然破ったのは、不気味な拍手の音だった。


 ホールの一番後ろ、暗がりの中からその音が響いてきた。拍手は規則的で、どこか皮肉めいた響きを持っていた。


 その異様な音に反応した警備隊は、瞬時にその方向へと注意を向けた。数人の警備員が拍手をしている人物に銃口を向け、緊張が一気に高まった。拍手をしていたのは、綺麗にアイロンがけをされたスーツに身を包む中年の男の姿だった。

 男の顔には薄い笑みが浮かび、その表情には何の緊張感も見られなかった。まるでこの惨劇が、彼にとって何の価値もないただの見世物であるかのように、冷静さと余裕がにじみ出ていた。


 慎二はその拍手の音に気づき、恐る恐る後ろを振り返った。そして、薄暗いホールの奥で拍手を続けるその男を見た瞬間、慎二の記憶がフラッシュバックする。


「あれは……」


 思い出した。あの男は、『中村』と名乗って、少し前に慎二の実家を訪ねてきた人物だった。その時から、不気味な雰囲気をまとった訪問者だったが、今こうして再び目にしたその姿は、あの時よりも異様で、より不気味な印象を与えていた。

 中村の拍手と笑みが、何か恐ろしいことの始まりを予感させるようで、慎二は身震いを抑えられなかった。


「何者なんだ……」


 慎二はその場に立ち尽くしながら、心の中でつぶやいた。彼の脳裏には、さまざまな疑念が次々と浮かび上がり、そのすべてが不安と恐怖を増幅させていった。中村と名乗る男が何を企んでいるのか、何を知っているのか、そのすべてが謎に包まれていた。


「動くな! 両手を見えるところに出せ!」


 警備隊の一人が男に向かって叫び、警告の声がホール内に響き渡った。しかし、中村はその指示に従うこともせず、ただ微笑みを浮かべ続けていた。その笑顔は、まるでこの場のすべてを支配しているかのような、自信と冷酷さに満ちていた。


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