第3話 家族の話
『火星移住プロジェクト』の当選、殺人現場の遭遇からの取り調べ。怒涛のあの日から10日が経った。
慎二は、ふとした瞬間に時折ネットで殺人事件のニュースの記事が流れるたびに、あの血まみれの死体を思い出してしまう。そのたびに胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚が蘇るが、徐々にメンタルが回復し、普段通りの日常生活を送れるようになっていた。そうなってくると、後回しにしていたやるべきことをやらなければならないと感じていた。
「『火星移住プロジェクト』のこと、話さないとなぁ……」
設楽慎二は、ようやく『火星移住プロジェクト』の抽選に当選してからの大きな課題へと向き合うことにした。現実主義の両親に話すこと。そして、説得することだ。
「嫌だけど、行くかぁー」
黙って勝手に火星へ行くこともできたが、慎二の真面目な性格が筋を通さないことを許さない。慎二は深いため息をつき、母親に「今から帰る」というメッセージを送信して、お正月以来の実家へ帰省することを決意した。
慎二の実家は、電車で30分ほど移動し、駅から徒歩10分ほどの距離にある閑静な住宅街にあった。三階建ての建売住宅で、外壁は白く、屋根はシンプルな灰色で、周囲の家々と調和している。母は植物を育てるのが好きで、玄関の前には色鮮やかな夏の花が咲いていた。花々の香りが風に乗って漂い、慎二の心を少し和らげた。
玄関の扉を開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。それは子供の頃からずっと感じていた安心感に包まれるような香りだった。慎二は靴を脱ぎ、丁寧に揃えてから家に上がった。まるで日常に戻ったかのような錯覚を覚えるが、心の中にはこれからの話し合いへの緊張が渦巻いていた。
入ってすぐ右手には扉があり、慎二はゆっくりと開けてリビングへと入った。リビングは暖かい光に包まれ、家族の写真や思い出の品々が飾られていた。その中心には、母親の優しい声が響いた。
「お帰りなさい、慎二。久しぶりね」
「ただいま、母さん」
慎二は笑顔で答えたが、その笑顔の裏には緊張が走っていた。時刻は6時半を過ぎているということもあり、リビングには父の姿もあった。父はリビングのソファに座り、スマホでネットニュースか何かを読んでいた。父は慎二の姿に気づくと、スマホの画面を閉じ、慎二へと目を向けた。
「おお、慎二か。珍しいな」
「うん、ただいま」
慎二は少しぎこちない笑顔を作って答えた。キッチンからは何やら美味しそうな匂いがする。よくよく目を向けると母が夕食の準備をしており、幼い頃から慎二の好物であった豚の生姜焼きを作っていた。
設楽家は世間一般より少し裕福な家庭であった。父親は企業の中間管理職として長年勤めており、そのおかげで設楽家は余裕のある暮らしを送ることができていた。
父は家族を大切にし、特に慎二に対しては優しく接してくれたが、頑固な一面も持っていた。父は自分がこうだと思ったことには、意見を曲げるようなことはあまりなかった。だが、仕事やあらゆる物事に対して、一度決めたことは貫き通す力を持ち合わせていることから、父の頑固さは信念を最後まで貫き通す力から来ているものだと、慎二は感じている。
また、父は休日には家族と過ごす時間を大切にしてくれていた。慎二が幼い頃には一緒に公園で遊んだり、長期休みの時にはキャンプに連れて行ったりしていた。
慎二が成長するにつれ、勉強や将来のことについてもよく相談に乗ってくれた。慎二が何かに挑戦しようとすると、父はいつも「自分の信じる道を進め」と励ましてくれた。
母は何事にも現実主義で、家計の管理や家事全般を一手に引き受けていた。母は慎二が幼い頃から厳しくしつけをし、しっかりとした教育を施していた。母の現実主義は、家族が安定した生活を送るための基盤となっていた。
母は慎二に対して厳しく接することが多かったが、それは彼の将来を真剣に考えてのことだった。彼女は慎二が自立し、困難な状況にも対処できる強い人間に成長することを望んでいた。毎朝、慎二を学校へと送り出す際には「頑張りなさい」と声をかけ、帰ってきた時には「今日はどうだった?」と常に尋ねてきてくれた。それに対して慎二は嬉しそうに今日の出来事を話す。そんな日常を送っていた。一人暮らしする際も、心構えについて厳しい言葉をいくつか慎二に言っていたが、その裏には慎二に対する愛情が込められていた。
設楽家の家はいつも清潔に保たれており、母が趣味で育てる植物が家の中や玄関を彩っていた。家の中は温かみのあるクリーム色のインテリアで統一されており、家族の団らんの時間を大切にする空間が広がっていた。リビングのちょっとしたスペースには家族写真が飾られ、思い出の品々が所狭しと並んでいた。
「さ、ご飯できたよ」
母の言葉に父はすぐに反応して、ソファを立ち上がり食卓の椅子へと移動した。母は出来た料理と取り皿、家族人数分の箸を並べている。そして、慎二が帰って来たのが嬉しいのか少しご機嫌な様子であった。
「早く手を洗って来なさい」
「わかった」
母の言葉に慎二は幼い頃に戻ったかのように大きく頷いて、言われた通りにキッチンで素早く手を洗い、食卓についた。
慎二は食卓の椅子に腰を下ろし、家族が揃うまでの間、部屋を見渡した。リビングの窓から差し込む夕陽の光が、部屋全体を暖かいオレンジ色に染めている。壁に掛けられた時計の針が静かに時を刻み、家族の写真が飾られた棚が優しい雰囲気を醸し出していた。慎二の目は、ふと一枚の写真に留まった。そこには幼い頃の自分と両親が写っており、公園で笑顔を浮かべていた。
「懐かしいな……」
慎二は心の中でそう呟いた。その写真を見ていると、幼少期の楽しかった思い出が次々と蘇ってきた。父と公園でキャッチボールをした日、母の家事を手伝った日、家族で過ごした休日の数々。それらが全て鮮明に蘇り、慎二の心を温かく包み込んだ。
食卓には慎二の好物である豚の生姜焼きが並び、その香りが食欲をそそった。母が一皿一皿丁寧に料理を盛り付ける姿を見て、慎二は改めて家族の大切さを感じた。慎二が夢を語る前のひととき、家族の温もりを再確認し、心を落ち着かせることができた。
「いただきます」
家族全員が揃ったところで、慎二は小さな声でそう呟き、箸を取った。これから始まる大切な話し合いに向けて、心の準備を整えながら、慎二は一口一口噛み締めるように食事を進めた。
♢♢♢
食事が終わると、父は再びソファへと戻り、スマホに目を落とした。母は食べ終わった食器を片付けながら忙しそうに動き回っていた。慎二は食卓の椅子に座り、心の中で自分を奮い立たせていた。『あの話』を切り出すための準備をしていたのだ。ついに、その時が訪れた。
「ちょっと話があって……」
慎二は両親に緊張しながら声をかけた。父はその声を聞くと、スマホを置いてソファから立ち上がり、慎二の向かいに座った。父の穏やかな目が慎二をじっと見つめている。
慎二は深呼吸を一つする。何から話そうかと考えながら、ふと窓の外に目をやった。リビングの窓から差し込む陽の光が、慎二の緊張をほんの少しだけ和らげているように感じた。慎二は決意を固め、重い口を開いた。
「実は……」
その言葉が口から漏れた瞬間、両親の表情が一変した。
「俺、『火星移住プロジェクト』の抽選に当たったんだ」
一瞬、部屋の空気が凍りついたように感じた。母は驚いた表情を浮かべ、キッチンでの作業の手を止めた。そして、怒りが混ざったかのような厳しい表情を浮かべ、リビングの椅子に父と並んで静かに座る。父の穏やかだった目つきが鋭くなり、眉をひそめた。
「『火星移住プロジェクト』といえば、今ニュースでやってるやつか?」
「そう、それ……」
慎二は静かに肯定した。ガラリと変わった両親の雰囲気に、少し慎二は気後れした。しかし、ここで引いてしまっては本当に自分がやりたいこと、そのチャンスを逃してしまう。また、それ以上に両親との関係が一つ壊れてしまうような気がした。
「そうなんだ。本気で行きたいんだ。本当は抽選に応募する前に話さなきゃいけなかったけど……そもそも当たるとは思ってなくて……でも、こうなった以上、行く前にちゃんと話しておきたくて……」
慎二は両親の表情を読み取りながら、慎重に言葉を選ぶがうまくまとまらない。そんな姿を見て、母は静かに口を開いた。
「ブツブツとつぶやくんじゃなくて、ちゃんと話しなさい」
「……はい」
慎二は改めて深呼吸し、心を落ち着かせた。母の静かな声が、まるで心の中の嵐を鎮めるように感じられた。リビングの窓から差し込む陽の光が彼の緊張を少しずつ和らげていくのを感じながら、慎二は両親に対してしっかりと自分の思いを伝えることを決意した。
「俺は、昔から宇宙が好きだったんだ」
慎二の強い熱意が籠った話が始まる。
「月面着陸、月面基地の建設、宇宙空間への居住計画、そして『火星移住プロジェクト』。俺は小さい頃から宇宙がずっと好きだった」
慎二は父と母の顔を見る。二人は真剣な表情で慎二を見つめていた。それと同時に、ちゃんと話は聞いているという優しさも見え隠れしていた。
「今は大学で全く違うことを勉強してるけど、『火星移住プロジェクト』でその候補者を一般人から、それも抽選で平等に行われるという話を聞いて、俺は居ても立ってもいられなくて衝動的に応募したんだ。そしたら、何かの間違えかどうか分からないけど、当選できたんだ」
慎二は心の底から両親に向けて自分の気持ちをぶつける。
「俺は、火星に行きたい」
そこには緊張で言葉が詰まり、何から話そうかと悩んでいた青年はもういない。そこにいるのは、夢に憧れる一人の青年だった。
しかし、現実主義者はそれを許さない。
「どうして、その抽選に申し込む前に相談しなかったのかしら?」
母の声には少し怒りがこもっていた。母はさらに話を続ける。
「それに、大学はどうするつもり? 就職は? 将来は? 火星に行きたいという気持ちは分かる。けど、それには大きなリスクがある。人生を棒に振ることになったり、最悪は死ぬかもしれない。それは分かってる?」
母の正論が慎二の心に刺さる。だが、慎二は信念を曲げない。
「事前に相談をしなかったのは、本当にごめんなさい。それに、母さんが言っているのはその通りだと思う。だけど、そういうリスクを背負うことになっても、やっぱり行きたいんだ!」
慎二と母の言い合いは続く。現実主義の母と夢を追いかける慎二。二人の考えは交わることなく、平行線を辿っていく。
「慎二、分かってるの? 火星は地球と全然違うのよ。酸素も水もない、過酷な環境なの。そんなところに行くって、どれだけのリスクがあるか分かってる? しかも、万が一何かあったら帰ってこれないかもしれないのよ」
母は感情を抑えながらも、慎二の考えがどれだけ現実離れしているかを強調した。慎二もまた、自分の夢を簡単には諦められないと感じ、さらに声を強くする。
「母さん、それぐらいのことは分かってるよ。でも、俺はそのリスクを承知の上で行きたいんだ。宇宙には無限の可能性があるし、俺はその一端を見てみたいんだ。誰も見たことのない景色を、自分の目で確かめたいんだよ!」
二人の言い合いは激しさを増していった。
慎二の言葉には夢への情熱が溢れており、母の言葉には現実への冷静な分析が含まれていた。
「慎二、あなたの気持ちは分かるわ。でも、現実を見なさい。夢だけでは生きていけないのよ。将来のことを考えなさい。大学を卒業して、ちゃんとした仕事に就くことが大切なの。それがあなたのためにもなるのよ」
母の言葉には慎二への愛情が込められていたが、それが慎二の耳には束縛のように感じられた。彼は母の言葉を跳ね返すように、さらに強い声で返答した。
「母さん、俺はただ普通の人生を送りたいわけじゃないんだ。俺には夢がある。その夢を追いかけることが俺の人生なんだ。それがどれだけリスクを伴うことでも、俺はそれに挑戦したいんだ!」
慎二の言葉に母は一瞬黙り込んだ。母の目には慎二の強い決意が映っていた。それでも、母は諦めることなく慎二を説得しようとした。
「でも、慎二……」
母がさらに言葉を続けようとしたその瞬間、父が静かに口を開いた。
「――本気だな?」
父の声は不思議と討論となっていた母と慎二の声を黙らせた。慎二は問いに答える。
「本気で行きたい」
父と慎二は見つめ合う。父の強い眼差しから慎二は目線を一切ズラすことなく、見つめ続けた。そして、父は一言だけ発した。
「わかった」
父はこれで話は終わりだと言わんばかりに席を立ち上がり、定位置のソファへと戻っていった。
「ちょ、ちょっと! 慎二の人生がかかってるのよ!」
母は慌てたように父を話し合いの場へと引き戻そうとした。しかし、父は首を左右に振ってそれを拒否する。
「もう十分だろ。慎二の覚悟は固い。それに、慎二の人生は慎二のものだ。俺たちがどうこう言う筋合いはない」
「でも、現実的に!」
「これが現実だ。それに、慎二も男だ。夢の一つ、二つぐらい叶えられるようになってもらわなきゃ困る」
父はスマホの画面をつけながら、最後に慎二に一言だけ発する。
「やると決めたなら、最後まで貫けよ」
慎二は大きく頷き「分かった」と父へと伝えた。父は満足したのか、スマホの画面へと集中し始めた。
母は大きなため息を一つつき、少し表情が少し和らいだ。
「お父さんがああやって言う以上、もう無理ね……分かったわ。慎二が本気でそう思ってるなら、私たちも応援する。でも、無理はしないでね」
母の言葉に、父は静かに頷いた。
慎二は安堵の息を吐き、両親に感謝の気持ちを込めて微笑んだ。
「ありがとう、母さん、父さん。俺、頑張るよ」
慎二は両親の理解を得たことで、心の中に一つの大きな重荷が取れた気がした。リビングの時計が静かに時を刻む音が、慎二の心の中で響く。これでようやく未来に向けての新たな一歩を踏み出す準備が整った。
♢♢♢
慎二の未来を決める家族の話がひと段落し、家の中には先ほどの白熱した討論とは打って変わって、少し落ち着いた雰囲気が漂っていた。
リビングの空気は、緊張感が和らぎ、家庭の温かさを取り戻していた。父はソファに腰掛けたまま、スマホの画面を黙々と眺めている。母はキッチンで洗い物を片付けているが、その動きには以前のような焦りや苛立ちはなく、落ち着いた手つきで作業を進めていた。
慎二は討論の余波で全身が重く感じ、長い間自分の意志を貫いた疲労感がじわじわと押し寄せてきた。その影響で、まぶたが次第に重くなっているのを感じ、眠気が忍び寄っているのが分かる。体のあちこちがだるく感じ、心の中の緊張が溶けるように、自然とリラックスしていく感覚があった。
「そろそろ寝ようかな……」
慎二は三階にある自分の部屋へと向かおうとした。だが突然、父は慎二に声をかけた。父の声は静かでありながら、どこか心配げな響きが含まれていた。
「そういえば最近、物騒なことが多いが、慎二は大丈夫か?」
父の言葉で、慎二の脳裏に一瞬、あの殺人事件のことが浮かぶ。心臓が一瞬にして鋭く脈を打ち、過去の恐怖が甦る。しかし、すぐに気を取り直して首を左右に振り、否定の意を示す。
「大丈夫だよ! 母さんじゃないんだから、そんなに心配しないでよ」
慎二はなんとか作り笑いをしながらそう言った。
「そうか、ならいいんだが……」
父の目は再びスマホの画面に戻ったが、慎二の顔に視線を向けたまま、その心配そうな表情を見せていた。父はこういう妙な感の鋭さがあり、時折その直感が驚くほど正確な時がある。同性の仲間として、あるいは親としての深い感覚なのかは分からないが、父にはこうしたことがあった。
「どうした? なんかあったの?」
慎二は父の問いかけに対して恐る恐る尋ねる。父の目にはいつもの冷静さが宿っていたが、その奥には微かな不安の色が見え隠れしていた。父の目を見て、慎二は自分の心臓が再び速くなっていくのを感じた。
「ほら、お前の住んでる近くでも最近、殺人事件が相次いでいるって聞いたことがあるだろ? ニュースにもなってたし。それに――犯人は捕まってないどころか、《《様々な場所で事件を起こし回ってる》》そうじゃないか」
「――えっ?」
慎二はその言葉に驚き、心臓が大きく跳ねるような感覚を覚える。そういえば、10日前に殺人事件に遭った後は、その恐怖心からニュースを避けるようになっていたことを思い出す。急いでポケットからメガネ状のARゴーグルを取り出し、装着してニュースサイトを開いた。
画面に映し出されたのは、慎二が遭遇した事件を含む、奇妙なダイニングメッセージが残された複数の殺人事件に関する詳細な情報だった。報道の中には、同じ手口で無残に命を奪われた被害者たちの写真や、犯人が残した不気味なメッセージが並んでいた。
その数――約20件。
殺され方には共通点があり、首を絞められた跡や、鋭利な刃物で致命傷を負わされた被害者が多い。残されたメッセージも似ており、赤いペンキで書かれた不気味な言葉がどれも恐怖を煽るものであった。そのメッセージには、「夜明けの来る前に」という謎めいた言葉が含まれており、どの事件も異様な雰囲気を醸し出していた。
その異様な一致は慎二の心に冷たい震えをもたらし、あの時の恐怖感が一気に蘇った。目の前のディスプレイに映し出された情報が、現実のものとは信じがたいほどの恐怖感を与えていた。慎二の手は震え、画面に表示される詳細が信じがたいほどに感じられた。
「慎二、大丈夫か?」
父の声が慎二を現実に引き戻す。慎二は震える声で答える。
「うん、大丈夫だよ……」
「慎二、顔が真っ青だぞ? 本当に大丈夫か?」
父は心配そうに慎二の顔を覗き込み、その表情に深い関心を寄せていた。慎二は慌てて顔を背け、階段を駆け上がろうとする。
なぜ、何のために……犯人が殺人を続けるのか、その理由は全く分からない。分からないが、この事件は慎二の心を蝕み、絡まり、決して逃すことはないだろうと慎二は心のどこかで確信を持つことになる。そして、恐怖と不安が心の中で膨らみ、眠れぬ夜が続くことを予感させる。
――その時だった。
[ぴーんぽーん]
インターホンが鳴った。