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第1話 火星移住プロジェクト

 2017年から本格的に始まったNASA主導による『火星移住プロジェクト』。この計画は莫大な費用と多大なる犠牲の上に進められ、2040年の夏、ついに大きな発表が行われることとなる。


 人類はこの発表に熱狂し、かつてSF作品の一つでしかなかった夢が現実になろうとしていた。気候変動対策として再生可能エネルギーが普及し、都市の大気汚染は大幅に改善され、自動運転車が一般的になり交通事故が減少した。また、拡張現実(AR)技術の進化により、エンターテインメントやコミュニケーションの方法も革新的に変わっていた。


 その中で、火星移住プロジェクトの実現は、人類の希望と夢を具現化する象徴となり、全世界が一つの目標に向かって協力する新たな時代の幕開けを感じさせていた。


 日本も例外ではなかった。この発表はメディアで大々的に報道され、SNS上でも連日トレンド入りしていた。時折、インターネット特有の陰謀論や過激な意見も見られたが、それを凌ぐほどの肯定的な投稿が溢れていた。


 ――そして今日、ついに移住者の一般枠の抽選発表が行われるのだ。


 応募人数は全世界で5千人の枠に対して1億人超え、倍率が2千倍以上という途方もない数値となっていた。


 そのニュースが流れるたびに、街角の大画面モニターやAR機器、スマホなどの通信デバイスの画面には興奮と期待が渦巻く人々の姿が映し出された。未来への希望を胸に、日常を送る人々にとって、火星移住はただの夢物語ではなく、今まさに現実の一部となりつつあった。


 全人類が宇宙に夢中になった日。東京に住む一人の青年もその例外ではなかった。


「ついに今日発表かぁー」


 SNSの投稿をAR機器(メガネ状の情報表示や通信機能を備えたウェアラブルデバイス)で流し読みしながら、青年はつぶやいた。ニヤニヤと頬を紅潮させ、ワンルームの隅にあるベッドに横たわり、SNSの投稿やネットニュースを読み漁る姿は、第三者から見れば明らかに奇妙に見えた。しかし、それほどにまで青年は宇宙に夢中になっていたのだ。


 最新の投稿を何度もリロードし、人々はどんな反応をして、どんな意見を言っているのか。それをすぐに調べることができ、次々とさまざまな意見を見ることができるのはSNSの醍醐味であると言えるだろう。


 青年の名前は設楽したら慎二しんじ。ごくごく一般的な家庭に生まれた平凡な大学二年生である。大学近くのアパートで一人暮らしをし、少し堕落した生活を送りながらも、大学生活を楽しんでいた。


「さて、そろそろ時間だな……」


 慎二は時計を見上げ、深呼吸を一つした。日本時間午前6時。その抽選の結果が登録されたメールアドレスへと一斉送信される時刻が近づいていた。部屋はまだ薄暗く、カーテンの隙間から漏れる微かな朝の光が部屋をぼんやりと照らしていた。


 ベッドの中から起き上がり、慎二は少し緊張した表情で姿勢を正し、ARの画面へと注目した。


「なんでこんなに緊張してるんだろう……」


 慎二は自嘲気味に笑った。心臓が高鳴るのを感じながら、手のひらが汗ばんでいるのに気づいた。数千分の一の確率で当たるわけがないと自分に言い聞かせるが、それでもどこかで奇跡を信じていた。この瞬間、慎二は夢と現実の狭間で揺らいでいる不思議な感覚になっていた。


「もうすぐだ……」


 秒針が6時を指す瞬間、慎二の胸はさらに高鳴った。心拍数が上がるのを感じながら、彼は受信ボックスを再度確認した。すると、まさにその時、新しいメッセージが表示された。画面に表示された『NASA火星移住プロジェクト抽選結果』というタイトルが、彼の視線を引きつけた。


「き、きた! 」


 慎二は息を呑み、震える手で指で仮想パネルを操作し、そのメールをクリックした。画面が開くのに数秒もかからなかったが、その瞬間はまるで永遠のように感じられた。メールの本文が表示されると、慎二は一言一言を食い入るように読み始めた。


 ――――――――――――――――――――


『NASA 火星移住プロジェクト』抽選結果のお知らせ

 ――――


 この度は抽選に申し込みいただきありがとうございました。

 厳正なる抽選を行った結果、ご当選されました。


 誠におめでとうございます‼︎


 ――――

【ご当選内容】

『NASA 火星移住プロジェクト』

 第一移民団 第358番


 ――――――――――――――――――――


 慎二の目はその文章に釘付けになった。喜びと驚きが入り混じり、信じられないという表情が顔に浮かんだ。


「本当に……? 嘘だろ……」


 彼は自分の目を疑い、何度も画面を見直した。しかし、メールの内容は変わらなかった。これから始まる出来事に対する興奮と、不安が混在する中、慎二はベッドの上に倒れ込み、天井を見上げた。


「あ、そうだ、あいつはどうなんだろう? 」


 この興奮をすぐにでも知らせようと、友人である高村たかむら一也かずやのことを思い出す。

 この抽選に申し込んだ日、慎二はまたまた一緒に遊んでいた一也と共に申し込んでいたのだ。どうせ外れるだろうという遊び半分と、もしかしたらという期待もいだききつつ、応募フォームを記入して送信したあの興奮のことを、一年経った今でもクリアに思い出すことができる。


 早速、一也の結果を知るべく、ARの通話機能を利用した無料の通話アプリを立ち上げた。

 慎二は心臓がまだ高鳴っているのを感じながら、通話ボタンを押す。信じられないような状況に直面している彼は、一也の反応を想像しつつも、少し緊張していた。


「もしもし、一也? 」


「おお、慎二か。もしかして、例の当選かどうかか? 」


 一也は慎二の電話の内容についてすぐに察したようで、他の雑談なしでいきなり本題へと入る。

 慎二は一瞬、どう話を切り出すべきか迷ったが、率直に尋ねることにした。


「ああ、それのことだよ。一也はどうだった? 」


「ダメだったよ……まあ、もともと何千倍の倍率の抽選だ。インフルエンサーのプレゼント企画の抽選で当たる方が簡単なぐらいだ」


 電話の向こう側で一也が苦笑いを浮かべているのが容易に想像できた。慎二もその光景を思い浮かべて、わずかに微笑んだ。

 一也は話を続ける。


「それはそうと、慎二はどうだったんだ? そっちもダメだったのか? 」


 慎二は待ってましたと言わんばかりに、高らかに興奮を一也へと伝える。


「それがさ! 当選しちゃったんだよ! 」


「は、はぁ!? マジで言ってんのか!? 」


 一也の驚きが伝わってくる。慎二はその反応を楽しみながらも、まだ現実味を帯びていない自分の状況を再確認するように、一也にその興奮を伝えながら何度もメールを読み返している。


「マジのマジ。俺も夢じゃないかと何度もメールを見返したよ。今も見返してるぐらいだよ」


「すげぇな、慎二……お前、本当に火星に行くのか? 」


 一也の問いかけには、慎二の心の中にある期待と不安が交錯していた。彼は深呼吸をして、言葉を選びながら答えた。


「うん……まだ信じられないけど、行くよ。てか、そもそも応募規定の時点で、当選したら辞退できないって書いてあったんだろ?」


「そういえばそうだったな。慎二はよくそういうのを覚えてるな……」


 この『火星移住プロジェクト』は、アメリカを中心としたその同盟国の国家で行われているプロジェクトである。そのため、相当な予算をかけて行われることから、当選者が当選した後に「やっぱり辞めた」とはできないよう、国家の個人情報システムと紐付けされ、厳重に管理されることになっている。


「辞退なんてできないって書いてあったけど、それでも応募者が多いのはすごいよな」


「そうだな。死ぬかもしれないって危険があるのに、『働かずに生活が保障される』ってことで応募者が殺到するんだもんな」


 『火星移住プロジェクト』の一環として、彼らの生存と適応のデータが地球での未来の移住計画にとって重要な情報源となる。それはつまり、半ば人体実験のモルモットになるようなものである。そのため、この移住者に対しては見合う生活の保証がされていた。

 これにより、多くの人々がリスクを承知で応募していた。慎二のように純粋に火星に移住したいという夢を抱く人もいれば、経済的な理由で応募する人もいた。


「でもさ、慎二。お前は純粋に火星に行きたいって思ってたんだろ? だから当選したのはお前にとって最高のチャンスじゃん」


 一也の言葉に、慎二は笑顔を浮かべ、再び深呼吸をした。


「ありがとう、一也。お前の言葉、ほんとに励みになるよ」


 慎二はこのプロジェクトが持つリスクを理解しつつも、新たな冒険への期待で胸が高鳴るのを感じていた。

 しかし、慎二は一つ重大なことを忘れていたことに気づく。


「あ、親になんて言おう……」


 慎二のその言葉に一也は大声を上げて楽しそうに笑った。


「確かにな! 火星に行く行かないの前に、親にちゃんと話す方が問題か!」


「笑うなよ……うちの親、厳しいんだよ。大学は絶対出ろーとか、いい企業に就職しろーとかさ」


「まあ、それが普通だよな」


 一也の笑い声が慎二の不安を少し和らげたが、現実の重みは変わらなかった。彼の両親は伝統的な価値観を持っており、大学卒業と安定した職業を望んでいた。火星移住など、まるでSF小説の世界の話のように感じるだろう。


「お母さんなんて、『しっかり将来を見据えろ』って実家に帰る度に言ってくるからなあ……」


「じゃあさ、後で集合して飲もうぜ。当選祝いと親への言い訳を考えながらさ」


「……それ、いつもの一也が飲みたいだけでしょ」


「あ、バレた?」


 慎二は苦笑しながらも、友人の軽妙なやり取りに心が少し軽くなった。


「しょうがないなぁ……じゃあ、夕方ごろに駅前で集合しようか」


「決まりだな。じゃ、後でな」


 具体的な約束を交わし、電話を切ると、慎二は一気に疲れが押し寄せるのを感じた。興奮が少しおさまり、久しぶりの早起きも相まって、体が重く感じた。


「ちょっと仮眠でもしようかな……」


 慎二はベッドに横たわり、深呼吸を一つした。これから『火星移住プロジェクト』に携わるにあたり自分はどうなるのか、また両親にはどう伝えるか、考えることは山積みだった。だが、今は少しだけ体を休めることにした。

 静かな部屋の中で、徐々に意識が遠のいていく。今日の出来事が夢でないことを願いながら、慎二は眠りに落ちた。



 ♢♢♢



 結局、あれから当選の興奮から何度も寝ては起き、寝ては起きを繰り返していると、約束の時間が迫っていた。


「さて、そろそろ起きるか」


 ゆっくりと体をベッドから起こし、枕元に置いてあったAR機器をセットして、大きな欠伸をひとつこぼした。


「さっさと準備して遅れないように行くか」


 ベッドから立ち上がり、ノシノシとした足取りで身支度を整える。約束の時間に遅れずに済むように自宅を出る。


 玄関を開けると8月の厳しい日差しとムシムシとした熱気が一挙に襲いかかる。まだ自宅から一歩も外に出ていないのに、すでに帰りたくなり始めている自分がいることに慎二は苦笑いを浮かべた。玄関の扉を閉め、しっかりと戸締りを確認し、少し早歩きで集合場所へと向かう。


 道中ではAR機器を常に起動し、火星移住プロジェクトに関する最新のニュースやSNSの反応を追いかけていた。また、自分の当選メールを見返してニヤニヤとしながら歩いていた。


 集合場所は、自宅から徒歩で約15分の距離にある電車の駅だ。この駅は規模が大きすぎず、小さすぎず、ちょっと都心から外れた郊外に位置している。駅はよく見られる商業施設と一体化した構造をしており、そこには日用品から食料品、服や遊び場まで様々なものが揃っていて、とても便利だ。


 また、駅の前には広場が広がっており、そこには何のために建てられたのかよく分からないモニュメントが立っている。無駄ではないかと思うこのモニュメントだが、都合のいい待ち合わせスポットになっているため、一概に無駄とは言えないかもしれない。


 そんなことを考えながらモニュメント周辺に目を向けると、待ち合わせ相手がすでに先に到着しており、慎二に向かって大きく手を振っていた。


「おい、慎二! 遅いじゃんか! 」


 ニッコリと笑顔を見せながら、ゆっくりと慎二へと歩いてくるのは、一也だ。一目ですぐにわかる。


「いや、遅くはないだろ……待ち合わせ時間ちょうどだろ? 」


「5分前行動だろ! 」


「小中学校の担任の先生みたいなこと言わないでくれよ。それで理不尽に皆の前で説教された嫌な思い出を思い出すだろ? 」


「ははは、すまん」


 バツが悪そうな表情を浮かべる慎二に対し、一也は大袈裟な態度で謝りながら、冗談っぽく笑った。その後、二人はニッコリと笑い合い、ハイタッチを交わした。


「で、どこ行く? 」


「いつもの居酒屋にしようぜ。とりあえずビールで乾杯してから、話をしよう」


「了解。じゃあ、行こうか」


 二人は肩を並べて歩き出し、この暑さから逃げるように駅直結の商業施設へと入って行った。そしてその施設の4階にあるレストラン街へと向かう。そこには、小洒落たレストランと二軒のチェーン店の居酒屋が並んでいる。二軒の居酒屋のうち、一軒に入ると、店内は大学生の若者のグループで賑わっていた。


 大学二年生の二人だが、慎二は5月、一也は6月に誕生日を迎え、すでに20歳を超えている。二人とも特に大学の運動部には所属せず、一応サークルには入っているものの、活動はそこまで活発ではないため、暇を持て余すことが多い。そのため、普段から暇を見つけては二人で堕落した酒飲み生活を送り続けている。そして、両親からの仕送りが酒代へと消えていく。


 そのことから馴染みの居酒屋がこの駅周辺にはとても多い。そしてこの店もその一つである。ロボの店員にもそれは認知されており、いつもの席へと案内された。


 店内の席に着くと、一也がメニューを手に取りながら言った。


「今日は慎二のお祝いだから、俺が最初の一杯は奢るよ」


「マジか、ありがとう! 」


 二人はビールを注文し、しばらくしてから冷えたジョッキがテーブルに運ばれてきた。慎二はその冷たさに一瞬顔をほころばせ、ジョッキを手に取った。


「乾杯! 」


 ジョッキが軽くぶつかり、心地よい音が響く。慎二は一口ビールを飲み、喉の渇きを潤した。


「それで、あれからちょっと時間経ったけど親になんて言い訳するか考えたか? 」


 一也は少しイタズラっぽく慎二に問いかける。すると慎二は肩をすくめて笑った。


「まだ何も考えてないよ。でも、どうせ反対されるのは分かってるし、どちらかと言えば話し合いがすぐに終わる方法考える感じだね」


 それを聞いて一也は笑う。


「それはいい考えだ。ロープレでもするか?めんどくさい感じに出すのは得意だぞ」


「いいね! それやろう」


 飲み会が進むにつれて、雰囲気は和やかになり、二人の会話も弾んでいった。ロールプレイの中で一也が誇張しすぎた父親のモノマネを披露すると、慎二は大笑いした。

 結局、ロールプレイの成果は全くなく、具体的な対策は決まらなかった。


「これ、もう無理だね」


 慎二は肩を揺らして笑いながら言った。彼の心はすっかり和んでいたが、現実の問題に直面する重圧もまだ感じていた。そんな中、一也の無邪気な笑い声に誘われて、少しだけ肩の力が抜けた。


「ああ、これは無理だ」


 一也も慎二に続き、笑いを堪えながら同意した。彼の目にはまだ楽しそうな輝きが残っており、何気ない冗談で緊張を和らげようとする姿に、慎二は安心感を覚えた。


「お前にロールプレイの相手をお願いした俺がバカだったよ」


 慎二が嘆くと、一也は冗談めかして答えた。


「じゃあ、慎二が悪いって言うことで解決? 」


 一也が軽口を言うと、慎二は少し驚きの表情を見せるが、すぐにまた笑顔を浮かべた。


「いや、どう考えても一也のせいだろ! 」


「これはもう、当たって砕けろの精神で行くしかないな」


 一也は肩をすくめて笑い、さらに慎二の心を軽くした。慎二もそれに同意し、笑いながらうなずいた。


「ロールプレイの成果は全くなかったわけだしね」


 慎二がつぶやくと、一也は笑顔でうなずいた。そして彼らの会話は自然と他の話題へと移っていく。


「ところでさ、最近新しいゲームが出たんだって。めちゃくちゃリアルなARゲームでさ、もうすでに話題になってるらしいよ」


「マジか、どんなゲーム? 」


「なんか、街中を舞台にして、リアルタイムでクエストをクリアしていくっていう感じらしい。ちょっと昔にあったポケモンGOみたいな感じだけど、もっと進化してるゲームだってさ」


「それは面白そうだな。今度一緒にやってみようぜ」


「いいね、やろうやろう! 」


 二人はゲームの話や、最近見た映画の話、大学の講義での面白い出来事など、さまざまな話題で盛り上がった。


 お酒や料理を次々に注文しながら、二人は楽しい時間を過ごしていった。店内の照明が徐々に落ち着いた雰囲気を醸し出し、窓の外には夜の街が広がり始めていた。


「気づいたら、もうこんな時間か……」


 ふと慎二が腕時計を見ながら言った。


「ほんとだな。楽しい時間はあっという間だな」


 一也はそれに同意した。二人は最後のハイボールを飲み干し、勘定を済ませるために席を立った。店員に礼を言いながら店を出ると、夜の風が心地よく二人を迎えた。


「今日はありがとうな、一也。話を聞いてもらって、少し気が楽になったよ」


「こちらこそ。いつでも話を聞くから、また飲もうぜ」


 二人は駅までの道を歩きながら、軽い雑談を続けた。駅に着くと、一也が手を振りながら別れを告げた。


「じゃあな、慎二。気をつけて帰れよ」


「おう、一也もな。またな! 」


 二人はそれぞれの方向へと歩き出し、夜の静かな街へと消えていった。慎二は心の中で、一也との楽しい時間を思い返しながら、帰路へとついた。



 ♢♢♢



 自宅への道中、慎二はいつものようにAR機器を装着し、ネットサーフィンを楽しんでいた。視界に浮かぶ画面には、SNSやニュースサイトの最新情報が次々と表示されている。


 最近のトピックの中心はやはりNASAの火星移住プロジェクトの話題だった。数日前まではトレンドのトップを占めていたが、現在は少し沈静化していた。しかし、依然として多くの人々が感想や意見を投稿しており、その中にはデマ情報や憶測も混じっていた。


 慎二はこれらの投稿を流し読みしながら、新しい情報がないかとスクロールしていた。専門家の見解や技術的な進展についての真面目な記事から、プロジェクトに対する期待や不安を語る個人の投稿まで、様々な視点が次々と表示される。


 ――ふと、鼻腔に嫌な鉄の匂いが感じられた。


 何事かと思い、慎二はAR機器のディスプレイに表示させていたサイトを閉じ、周囲を確認した。いつもの見慣れた通りのはずが、異様な静けさに包まれている。


 そして――数メートル先に目を向けたその瞬間、頭を撃ち抜かれた人間の死体が血の池に倒れているのを目にした。


「――――――――――――ッ!! 」


 驚愕と恐怖が慎二の体を貫き、一瞬その場に釘付けになった。冷や汗が頬を伝い、心臓が激しく鼓動を打つ。そして慎二は声にならない声をあげていた。


 死体の頭部には大きな銃創があり、鮮血が四方に飛び散っていた。

 目は見開いたまま固定され、口は半開きで、絶望の表情を浮かべていた。体は不自然にねじれており、片腕が無造作に伸ばされている。服は乱れ、血にまみれて赤黒く染まっていた。


 辺りを見回すと、通りには他に人影がなく、静まり返っている。ただ、遠くで車の音が聞こえるだけだった。


 慎二は震える手でAR機器の通信モードを起動して、警察に通報しようとした。しかし、操作がうまくいかない。深呼吸を一つして、ようやく緊急通報ボタンを押すことができた。


「ここで何が起こったんだ……? 」


 慎二は小さく呟きながら、再び死体を見つめた。目を離したいと思いながら、なぜか目を離すことのできない。胃が内容物をゴロゴロの拒絶するかのような感覚に襲われ、事件の現場に遭遇してしまった現実が、じわじわと彼の意識に浸透していく。


 ふと、地面に広がる血だまりの中に、不規則な模様のような文字があることに気づいた。慎二は恐怖に震えながら、一歩一歩ゆっくりとその文字に近づいた。足元の血に触れないように注意しながら、慎重に進む彼の心臓は激しく鼓動していた。恐る恐る文字を見つめたその先には、まるでアルファベットのくずし字のように見えるが、全く読めない。


「これは一体……」


 息を飲み、慎二はさらに身をかがめて、その文字をもっとよく見ようとした。恐怖と興味が交錯する中、彼は震える手を文字の上にかざし、何とかその意味を理解しようと試みた。しかし、その文字は依然として謎のままで、彼の不安はますます募っていった。


「この人、これで何かを伝えようとしている……? 」


 慎二は考えたが、その文字の意味を理解することはできなかった。不安と恐怖が再び彼を包み込み、早くこの場所から立ち去りたいという気持ちが強くなった。


 その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。慎二は急いで立ち上がり、警察が到着するのを待つことにした。彼は自分の安全を確保するために、少し離れた場所で警察が現場に駆けつけるのを見守っていた。


 サイレンの音が徐々に大きくなり、パトカーが到着すると、警察官が迅速に現場を封鎖し、慎二に近づいてきた。慎二は発見した状況を説明する。


「――ということで、見つけた時にはもう……それで、すぐに通報をしました」


 慎二は簡単に発見から通報までの一連の流れを説明し、それを聞いていた複数人の警察官がメモを取りながら、丁重に対応してくれた。


「なるほど……教えてくれてありがとう。いくつか質問があるんだけどいいかな? 」


「はい、もちろんです」


「ありがとう。じゃあ一つ目なんだけど……」


 慎二は事件に遭遇した衝撃で、ぼーっとした頭を必死に働かせて警察の質問に答えていく。だが、慎二にどんどんと顔色と体調の不調が現れると、警察は質問を一区切りにする。


「今日はここまでにしようか。申し訳ないけど、明日の朝イチに警察署の方に来れるかな? もちろん、体調が悪かった時は全然休んでもらって構わないよ」


「はい、ありがとうございます」


 慎二は一連の出来事を思い返しながら、自分が目撃したことの重大さに驚きと恐怖を感じつつ、その場を後にした。警察は周囲での聞き込みや現場の写真の撮影など、慎重に調査を開始していた。


 心臓の鼓動がまだ激しく、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、早足で自宅へと向かう。その道中、慎二の頭の中にはあの血の池に倒れた死体の光景が何度もフラッシュバックしていた。彼は何度も深呼吸をし、冷静さを取り戻そうと試みるが、その恐怖はなかなか消え去らなかった。


 何度もあの光景を記憶から消そうと、慎二はAR画面を操作し、夢中になっている『火星移住プロジェクト』に関するニュースサイトやSNSに戻して意識を逸らそうとした。しかし、視界に浮かぶAR画面ももう目に入らず、恐怖と混乱が心を支配している中で、ただ家に早く帰りたい一心だった。


 自宅のドアを開けると、慎二は一瞬だけ安心感を覚えたが、まだ動揺が残っており、まずはキッチンに向かい、水を一杯飲んで喉を潤す。

 次に、バスルームで顔を洗い、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。青ざめた自分の顔が、今日の出来事の異常さを物語っていた。


 部屋に戻った慎二は、ゲームでもやろうかとパソコンを起動する。すでにプレイ時間は5000時間を超え、それでもまだまだやり込めることから、お気に入りなゲームの一本であるこのシミュレーションゲームだが、その内容が全く頭に入らない。思考は常にあの現場に戻り、死体のこと、血の文字のことばかり考えてしまう。


「夢、だったんだろうか……」


 慎二はなぜあの人は殺されたのか。そしてあの人が残していた意味のわからない模様のような血文字。全てが分からず、ただあの光景だけが脳裏に焼き付いている。

 それにこれを誰かに話していいのか。自分の胸の内に潜め、抱え込んでいくしかないのか。答えの見つからない考えが、ぐるぐると回っていた。


 疲れがどっと押し寄せてきた。心も体も限界に達していると感じた慎二は、重い足取りでベッドルームに向かった。ベッドに倒れ込むと、今日の出来事を頭から追い出そうと目を閉じた。


「明日考えよう……」


 慎二はそう呟きながら、徐々に意識を失い、深い眠りに落ちていった。夢の中でも、あの光景が追いかけてくるかもしれないという不安を抱きつつ、しかし疲れ果てた体はそれを無視するかのように、静かな眠りへと誘っていった。

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