完璧なる公爵夫人、愛する夫に内緒で深夜にドカ食いしてしまう
エレノア・ノーチェは公爵夫人である。
地方の男爵家の出身だったのだが、ある日の夜会で公爵ルーガス・ノーチェに見初められ、そのまま婚約し、婚姻に至った。
当初は「田舎娘が公爵を落とした」などと揶揄する声もあったが、彼女は負けなかった。
都会貴族たちの礼儀作法を徹底的に学び、自らを優雅に魅せる仕草を懸命に模索した。
エレノアが各種夜会で侮蔑の目を見返すのに時間はかからなかった。
鮮やかな赤毛をなびかせ、ドレスをあでやかに着こなすその姿に貴族たちは圧倒される。
とある公爵の夫人がエレノアに自ら負けを認め、「あなたを侮辱して悪かった」と謝罪したのは語り草となっている。
エレノアは“赤い貴婦人”と呼ばれるようになり、社交界の中心人物へと上り詰めていったのである。
そんな彼女は今日もノーチェ家の邸宅で、夫と夕食を共にする。
使用人は夕方には帰宅させているので、夜は二人きりとなれる。
ルーガスもまた金髪で整った顔立ちを持ち、王国では高官として王家を支える若き紳士である。将来を嘱望されており、いずれは宰相の椅子は固いとされている。
「さ、食事にしようか、エレノア」
「ええ、ルーガス様」
テーブルに夕食が並ぶ。
白身魚のムニエル、トマトのポタージュ、均等に輪切りされたパンが並ぶ。
これらをナイフやフォーク、スプーンを使い、上品に食していく。
食後にはひと瓶で家が建つと言われるほどの高級ワインで優雅に乾杯。
まさにこれこそ貴族、というべき食事風景であった。
「今日の料理も美味しかった……神に感謝しよう」
「はい……」
夫婦はにっこりと笑うと、そのまま寝室に向かった。
***
深夜、草木も寝静まる頃、その音は鳴った。
ぐぅぅ……。
ベッドからむくりと起き上がったのはエレノアだった。
「お腹が……空いちゃったわ」
目が覚めてしまった。
そう、先ほどの音は彼女の腹の音だったのだ。
日頃から夫の名誉のため、“赤い貴婦人”の異名を維持するため、人一倍の節制をしているエレノア。
だが、それらで消費したエネルギーが、深夜の空腹となって現れた。
「どうしましょう……」
再びシーツの下に潜るが、空腹は収まらない。
眠れそうにない。
「……仕方ない!」
エレノアは決めた。
眠るためには、深夜の食事をするしかないと。
深夜に物を食べるなど、貴族のマナーとしても、美貌を維持する上でも、貴婦人としてはあってはならないこと。
エレノアは寝息を立てているルーガスに心の中で詫びた。
さっそくエレノアは音を立てないよう、キッチンに向かう。
黙々と準備を始めていく。
両手ほどの大きさのパン。
続いて鍋に入っているトマトのポタージュ。これを大きめの皿にたっぷり注ぐ。
保存している干し肉を取り出す。
おやつ用のブドウやオレンジなどのドライフルーツを山盛りで用意。
使用人たちが飲む安ワインをグラスに注ぐ。
これらのメニューをテーブルに並べ、深夜の一人晩餐会が始まった。
「いっただきます!」
かつて、まだ田舎令嬢だった時のように挨拶をする。
エレノアがまず目をつけたのはパン。
ナイフで切るなどという上品な真似はしない。右手でつかみ、そのままガブリ。
歯で食いちぎる。
「美味しいわぁ~」
エレノアはパンをよく噛んでから飲み込むと、ポタージュを見る。
「これをポタージュにつけて食べると……美味しいのよね~」
手でちぎったパンを豪快にポタージュにひたし、そのまま口に放り込む。
「最高ォ~」
にんまりと笑みを浮かべる。
深夜にパンをちぎっては食べ、ちぎっては食べ。
もう手が止まらない。
今のエレノアは貴族の夫人ではない。自動パン食べマシンである。
深夜の穀物、炭水化物。タブーだからこそ美味い。
次にエレノアは干し肉に目をつける。
これも一気にかじりつく。
歯と舌でたっぷり味わってから、ゴクリと飲み込む。
「肉が私の血となり骨となっていくわ……!」
盛られたドライフルーツを鷲掴みにし、一気に食べる。
「おいひぃ~!」
もう止まらない。
深夜の宴はまだまだ続く。
安ワインを一息に飲み干す。
「かぁ~! 高級なワインもいいけど……この雑味たっぷりのワインもまた……!」
寝間着姿で深夜飯をむさぼり食うエレノアの姿は、獲物にありついた獣の如しであった。
だが、これでいいのである。
時として己の中の“獣”を開放しなければ、貴族の夫人は務まらない。
やがて、満腹となったエレノアは大きく息を吐いた。
「ふぅ~……美味しかった……」
だが、我に返る。
とたんに罪悪感の波が押し寄せる。
私ったらなんてことを……。
公爵夫人ともあろう者が、深夜にパンや干し肉をお腹が膨らむまで平らげてしまった。
これは私を立派な妻だと信じる夫への裏切りだわ。
「ごめんなさい……ルーガス様……!」
エレノアは誓った。
二度と深夜のドカ食いなどしないと――
翌朝、エレノアはズボン姿で朝からジョギングに出かける。
ルーガスが尋ねる。
「君がズボンだなんて珍しいね。どうしたんだい?」
「今日は気候がいいから、ちょっと運動しようと思って……」
「そうかい、気をつけてね」
エレノアはえっほえっほと走るのだった。
昨晩のカロリー、消費しないと……!
***
それからのエレノアは夫人として、さらに一皮むけた。
夫を裏切ったという自責の念から、これまで以上に“赤い貴婦人”として社交界で華々しい活躍を見せた。
王族も出席したある舞踏会では、なんとソロでのダンスを披露。
見事なダンスに国王も拍手を送る。
「“赤い貴婦人”と呼ばれるに相応しいダンスであった。君のような伴侶を持つルーガスが羨ましいよ」
夫であるルーガスとしてはまさに鼻高々といった出来事であった。
帰りの馬車にてルーガスがエレノアに微笑む。
「君のおかげで、国王陛下から褒められてしまったよ」
「光栄ですわ」
「だけど……」
「?」
「無理をしていないかい? このところはダンスのレッスンをしたり、あちこちの夜会に参加したり、大忙しだろう」
「それが公爵の夫人としての務めですから」
この答えにルーガスは心配するような表情を浮かべる。
「なんというか、今の君からは何か“罪”から逃れようという、必死さすら感じてしまうんだ……」
ギクリとするエレノア。動揺が顔に出そうになるのをかろうじて抑える。
「そ、そんなことありませんわ!」
「すまない。余計なことを言った。今の言葉は忘れてくれ……」
夫の鋭さにひどく狼狽しつつ、エレノアは「あの深夜飯のことはバレてはならない」と心の中で誓った。
同時に自分の身を案じてくれている夫に、惚れ直す思いになるのだった。
***
その夜のことだった。
エレノアは目を覚ます。
ただし、空腹というわけではない。
「音が聞こえるわ……何かしら?」
ガサゴソとキッチンから音がする。
泥棒かと夫を起こそうとするも、ルーガスはベッドにいなかった。
トイレとも考えられるが――
「もしかして私よりも先に気づいて、泥棒と対決してる……!?」
勇ましい夫の姿を想像し、頬を染めるエレノア。
しかし、今はそれどころではない。
夫の身に危険が迫っている可能性もあるのだ。
エレノアは自分でも扱える武器としてモップを持ち、おそるおそるキッチンに向かう。
私もダンスで鍛えているし、田舎では山野を駆け回ってた。やすやすと泥棒には屈しないわ。
覚悟を決めてキッチンに乗り込む。
すると――
「……あっ!」
ルーガスがいた。
目を丸くしたエレノアだったが、ルーガスは彼女以上に驚いていた。
ひどくバツの悪そうな表情をしている。
ルーガスは、テーブルにパンやチーズ、肉などを並べ、豪快に食べていたのだ。
「ルーガス様……?」
「エレノア……見られてしまったね……」
ルーガスが床に膝をつき、土下座のような体勢になる。
「すまない、エレノア! 先ほどの夜会ではあまり食事できなかったから、お腹がすいて、つい深夜に……! 食料をむさぼるように……! すまない……!」
謝罪する夫をエレノアは責めなかった。
それどころかむしろ、明るい気持ちになった。エレノアの顔に花が咲く。
「いいえ! いいのよ! 実は私も……!」
エレノアは以前のドカ食いを白状した。
夫を裏切ってしまった自責の念から、以前にもまして社交に力を入れたことも、全て。
「そうだったのか……」
「はい……」
二人はにっこり笑う。
「じゃあ今夜は……二人で深夜に食事をしちゃおう!」
「はいっ!」
エレノアとルーガスは深夜の晩餐会を始めた。
パンを食べ、スープを飲み、サラダを喰らう。
もちろん上品な作法など使わず、むさぼるように喰らう。
今宵この時だけは二人は貴族ではない――蛮族であった。
***
次の朝、二人は胃もたれしていた。
楽しいひと時だったが、いくらなんでも食べすぎた。
深夜飯という航海をした結果、猛烈な後悔にも襲われている。
「おはよう、エレノア……」
「おはようございます、ルーガス様……」
とても朝食は食べられそうにない。
エレノアはこう提案する。
「昨晩の反省と、カロリーを消費するため、ジョギングしましょう!」
「そうだね!」
夫婦は走り始めた。
ちょうど邸宅に出勤してきたメイドが驚いている。
「旦那様、奥様、どうなされたので?」
「ええっと……エレノアと早朝ジョギングさ!」
「そうなの! たまには夫婦で運動したいと思って!」
逃げるように走っていく二人。
そんな二人を見てメイドは「仲睦まじく摂生されるなんて流石だわ」と感心した。
昨晩の大不摂生も知らずに。
エレノアとルーガスは、それからも誰もが羨む完璧な夫婦であり続けた。
そんな彼らであったが、時々なぜか何かを反省するように早朝ジョギングをする姿が見られたという。
完
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