1.憂鬱なメアリー(メランコリックメアリー)
『ルーシー・ダイアモンド』
〝Lucy S. Diamonds〟
1.憂鬱なメアリー(メランコリックメアリー)
雨の市警の玄関に紳士が一人立っていた。
東洋系の憂いの瞳と、和らいだ笑み。不思議と衣服は濡れていない。ブラックのダブルストレートの革靴にチャコールグレイのテーラーメイドの三つ揃い。ダークグリーンのボルサリーノにダークブラウンのグローブ・トロッターのアタッシェケース。
「妖術師がなんの用? 気配消して入ってくんな」
受付のアレクサンドラ・ホワイトが顔を傾けながら西海岸英語で聞いた。制服の肩まであるソバージュの髪が揺れる。
「魔術師だ。ワザと間違えているだろう? アレックス。――ルーカス・S・ダイアモンドは?」
ウィザードはていねいで静かなBBC英語だった。
「死体安置場。間に合わなかったようね」
アレックスが視線を上に事実を述べた。ウィザードの身長は一六九センチメートルしかない。
「……のようだね。――右の下。歯、痛むだろう。早めに治療したほうがいい」
「ありがとう」
右顎に手をやったアレックスが笑うと「ウィザード」と呼び止めた。
「何?」
「彼女の奥さんが来ているわ」
「そう……ありがとう」
ウィザードが階段を上った。
*
十三分署は市の東側に位置する比較的大きな警察署で、セントルーシー市は魔女狩りで有名なセイラム市にほど近い半島で奇妙な事件が多い。とはいっても現代科学で解決できない事象など零に等しく、未解決事件はあってもウィザードが本業の魔術を使うことなどなく、私立探偵が今の仕事だった。
死体安置場のドアの前に、若く美しい女性が二人いた。
一人は、凛としたネイビーのパンツスーツで、腰にバッジがあった。スラヴ系のホワイトブロンドの髪にダークブルーの瞳が美しい。
「では、本人で間違いありませんね」
アイヤ・ヴィヤゾフスカ警部補が容認発音(RP)の事務的で強い口調で確かめた。#アルト
「ええ。本人です」
窓の外は春の暮れ。もうすぐ雨の海に陽が沈むが、その前にメアリーの気分は最低だった。目の下の隈を隠そうともしていない。
ライトパープルのワンピースの裾に鉛でもつけているように足が重かった。
遠くを見ると、ウィザードと視線が合った。
琥珀色の瞳が美しい。アイヤより二センチ高い一七四センチのラテン系の麗しい女性だった。
「マム?」
ゆきすぎたメアリーたちを、ウィザードがボルサリーノを胸に呼び止めた。
「ダイアモンド夫人でしょうか?」
「どちらさまでしょう?」
地元ボストン訛りでメアリー・ダイアモンドが、見知らぬ小柄なハンサムに問い返した。
「これは失礼。――ご主人からは、ウィザードと呼ばれていました」
過去形。
「失礼な中国人に知り合いは――妻に知り合いはいません」
「わたしは日本人です。マダム。どちらかでお話し……できませんか?」
「端的に。この場で。わたくし急いでおりますの」
アイヤが右手を腰にやった。背中にグロック二三がある。警察官用の・四〇S&W弾は強力だ。
「ご主人に――いや奥さんに……貸し金がありまして」
「おいくらですの?」
美しい未亡人が目を細め、見知らぬ美丈夫を見下した。
「銀貨三十枚です」
メアリーがウィザードの頬を打った。
*
取調室で、氷嚢を右頬にあてたウィザードを、向かいのアイヤが笑っていた。そのメアリーもつられて笑いを止められなかった。
「あなたっていつも誤解される言い方をするわね」
「事実を端的に言ったまでだ」
「警部補、二人は親しいのかしら?」
メアリーが右隣のアイヤに聞いた。
「元夫。ときどき情夫。――そういえばあなた、アレックスの妹と寝たらしいわね?」
アイスバッグの角度を変えた。
「わたしの場合、脳震盪は前後一か月記憶がない。あれは二週間前だから今の話も忘れる」
「妻に呼ばれたと言っていましたが?」
メアリーが用件を聞こうとした。
「ルーカス――いやルーシーか――に、呼ばれた」
「履歴はなかったけれど?」
アイヤがウィザードのMacBook ProとiPhoneを確かめていた。ウィザードの記憶が混濁しているあいだに指紋で解除したらしい。
「個人情報の保護は?」
「妹の映像があったら私刑だ」
「ないよ。ヌードなら首から上はあるかも。――あの娘、コーサウェイホテル ボストンのラウンジで酒を飲んでいたんだぞ? ホテル側が年齢チェックしていると思うじゃあないか」
「ダブルチェックしていないあなたが悪い。……ほう美人ね」
「確かに」
メアリーも同意した。
「ところで、呪術医はどんな魔術を使えるの? ――妻を生き返らせてくれるかしら?」
「……マダム、賢明な願いだとは考えにくい。ジェイコブズの『猿の手』を知らない訳じゃあないでしょう?」
W・W・ジェイコブズの悪意ある「三つの願い」だ。亡くなった子は甦るが、人とは言えない存在になってしまう。
「運命を受け入れろと? 何様のつもり? 必要な金額を言って。小切手を切るわ」
メアリーが話を終わらせようとした。
「いいえ。そうしたものは要らない。亡くなった者からは取らないルールがある。遺族に関してもそう」
アイスバッグをテーブルに置くと、ウィザードが内ポケットから領収書を出した。
「三万ドル?」
「利子を合わせるとそれくらいにはなる」
「あなたは何をしに来たの?」
ルーシーはまだ検死が終わっていない。
「生き返らせることはできないが、旧友の名誉を守ることはできる」
ウィザードがiPhoneでニュースを表示した。
ブラウザには「サーベラス不動産」「弁護士」「不審死」「消えた四二億ドル」の文字が順番に表示された。
「そう簡単にいくかしら……」
メアリーが動画サイトを確かめた。TV局のアンカーウーマンが十三分署の前で先ほどの言葉を繰り返していた。