呼び出し
【第9話】
同部屋三人の意地悪先輩が朝食で席を外している隙に、水蘭は莉空と厨房からもらってきたごちそうの丼を平らげた。
「莉空、おいしい?」
「うん」
口の周りを汚しながらもぐもぐと一生懸命咀嚼する弟を見たら、水蘭はそれだけでお腹が膨れると思った。
(わたし、三日くらいなにも食べなくても生きていける)
身も心も満たされて、活力全開。
張り切って仕事に励む。
宴のあと片付けで汚れた廊下の床を、顔が映るほどぴかぴかに磨き上げた。
洗濯も、厠掃除も抜かりなく、一部の隙なくこなした。
そんな最中……。
「今日も大切なお客様が見えます。見苦しい洗濯物は早々にしまいなさい」
上役から居丈高な指示が飛んでくる。
さっそく干し終えたばかりの洗濯物に息をついていた現場は、イラついた空気に支配された。
(ああ、この雰囲気。あとで菊花たちが爆発してまた嫌がらせしてくるかも)
それにしても、二日も連続で大切な客人とは。
今日もまた噂の皇帝陛下が来るのだろうか。
(皇帝って、そんなにぶらぶらと出歩いてなにをしているんだろう。高貴な方の暮らしってよくわからないわ)
ばたばたと廊下を行き来していると、春春と鉢合わせる。
厨房係の彼女は彼女で、山積みの盆や器を抱え、忙しそうだった。
「やんなっちゃうね、連続の宴。厨房、ものすごくぴりぴりしてるよ」
「うちも。莉空にも早めに部屋へ戻るよう言わなきゃ」
軽い会話のあと、「またあとで」とすれ違おうとしたところで、春春が呼び止める。
「ごめん、言い忘れてたけど」
「なあに?」
「陳生があんたのこと気にしてるみたいだから、気をつけな」
「……誰?」
「だからぁ、かまど番の陳生だよ。ずんぐりむっくりした、熊みたいなやつ」
「?」
思い出そうとしてみるが、まったく記憶にない。
春春は大げさにため息をつき、肩をぽんぽんと叩いてきた。
「昨日接待係の張さんにあんたのこと告げたのも陳生だよ。部屋の場所とかやたら詳しかったから変だなって思ったの。ちょっと無口で薄気味悪いところがあるやつだから、なるべく避けたほうがいいよ。じゃあ」
「あっ、心配ありがとう」
急ぎ足で去っていく後ろ姿に慌てて声をかける。
(かまど番の陳生……)
もう一度顔を思い浮かべようとするが、ぼんやりとも浮かばない。
挨拶したことすらないだろう。
(昨日から、なにか変)
皇帝陛下から「話をしたい」と呼ばれるだの、見ず知らずの男性から気にかけられるだの。
全部なにかの間違いであってほしい。
「っと、莉空に声をかけなきゃ」
ぷるぷると首を振って気分を変える。あの子が遊んでいるはずの西の庭へ向かった。
莉空を伴って部屋へ戻ると、仁王立ちした菊花が出迎えた。
背後には目つきを悪くした牡丹と撫子もずうんと立っている。
(うわあ……、やっぱり機嫌悪そう)
彼女らの怒りの矛先が弟へ向かないよう、莉空を背中へ隠す。
しかし、彼女らの怒りは、忙しさに対する苛つきではなかった。
「あんた、なにしでかしたのよ」
「さっき、長公主様からの使いがきたのよ。すぐにも正殿に来なさいって」
「きっと、うんと叱られるのね。首になればいいのに」
(正殿に……!?)
そこは、屋敷の中でも最も豪華な部屋だ。
長公主が様々な政府高官らを出迎える場所である。
先輩三人の凄みには慣れているが、告げられた内容にはさすがに怖気づいた。
(どうしてだろう。人づての注意とかではなくて、長公主様直々になにかを言われるの?)
思い当ることといえば、勝手に温室に入ったことだが……。
あそこはもともと放置されていた場所だ。
蘭の鉢を破壊しまくったとかでもなし、逆鱗にふれるようなことはしていないはず。
「水蘭」
そのとき、小さな手が背後からぎゅっと手を握ってくる。
知らず震えていたらしい。
振り向くと、莉空の緑の瞳が、心配そうに揺れている。
(だめよ、しっかりしなくちゃ)
水蘭は慌てて笑顔を貼りつける。
弟を不安にさせたくなかった。
「なんだろうね? ちょっと行ってくるから、いい子で待っていて」
(ここを追い出されるわけにはいかないもの)
金の髪をくしゃっと撫でて、水蘭は姿勢を正した。
(長公主様がなにかお怒りならば、床に這いつくばって、必死に謝って、許してもらおう)
覚悟を決めて正殿へ向かう。
牡丹と小鳥が彫り込まれた正殿の分厚い扉の前で、警護に立つ男性に名前を告げる。
「下働きの劉水蘭です。長公主様の命で参りました」
彼はじろりとこちらを一瞥すると、低い声で言った
「入れ」
内側に控えていたらしい侍女が扉を開けてくれる。
夜空に光る星のごとく磨き上げられた床に、雲母をまぶして輝く太い柱、そして奥には一段高い位置に繻子を貼った大きな肘掛椅子がある。
そこに堂々と座っていたのは、女主人ではなく――見目麗しい若者だった。