春春
【第8話】
その後、天翔は悪あがきをした。
少女が頑なに来ないのならばせめて、爪痕を残したい。
贈り物をしようと思った。
ちょうど帯に提げていた白玉があったので、それを取り外して侍女に託す。
「ではこれを水蘭へ」
「かしこまりました」
下働きの娘ならば、宝玉の価値を知らないかもしれない。
だが、純粋にその美しさを見て喜ぶだろう。
あわよくば感激して会いにきてくれれば……なんて下心もあった。
しかしながら、戻ってきた侍女は白玉を携えたままだった。
「人違いだと言って、頑なに受け取りませんでした……」
(なんてこった)
打ちひしがれる天翔の正面では、侍女も項垂れている。
何往復もさせた上、成果を上げられず、落ち込んでいるようだ。
もともと彼女は、おそらくだが姉の命令で天翔の夜伽を命じられてきたはず。
それが使い走りにされるとは、哀れだ。
「その玉はお前にやる。ご苦労だったな。もう下がってよい」
「は、え!? ありがとうございますっ!」
ぱっと顔をはね上げた侍女は、目もとと頬を赤らめ、心から嬉しそうに笑み崩れた。
(普通はそういう反応だよな……)
やけに冷静な気分で侍女を見送ったあと、天翔はどかりと腰を掛けた。
脱力感に襲われ、一気に眠気と酔いが襲ってくる。
額を押さえて天井を仰いだ。
「水蘭か……」
瞳を閉じた後も、まなうらで彼女は可憐に歌い続けていた。
◆ ◇ ◆
翌朝早く、水蘭は厨房へ向かった。
廊下の前で待っていてくれた同僚の春春と落ち合う。
彼女は、青磁宮で唯一ともいえる水蘭の友人だった。
よく日焼けした肌にそばかすを散らした頬をし、笑うと八重歯が覗く愛嬌のある少女である。
「おはよう、昨日は宴会お疲れさま」
「次から次へと料理を作らなきゃなんなくて、もう目が回るくらい忙しかったよ。で……、はい、これ」
大きな丼に山盛りの残飯を渡してくる。
厨房係を務める春春は、宴のあとには必ず残る食材を、こっそりと水蘭姉弟に分けてくれるありがたい存在だった。
「いつもありがとう。すごく助かるわ」
「なんの。どうせ捨てちゃうんだしね。こういうときくらいあの子にたっぷり食べさせてあげなよ」
莉空が年齢よりも幼いのは、やはり栄養が足りていないせいもあるのだろう。
本当は水蘭が絶食しても弟にもっと食べさせてあげたい。
けれども、遠慮してか本当に小食なのか、莉空は一人前の半分以上を決して口にしなかった。
「ところでさ、昨日接待係の張さんからあんたのこと訊かれたんだけど、なにかやらかした?」
「え……?」
まるで覚えがなく、大きく首を傾げる。
春春も腕を組み、うーんとうなる。
「てんやわんやの厨房に、綺麗に着飾った格好で飛び込んできてさ、『ここに水蘭という子はいますか?』って言うもんだから」
「な、なんで?」
「わかんないよ。まずいことがあったのかと思ったから、あたしは黙ってたんだけど、かまど番の陳生が答えちゃったんだ。大丈夫だった?」
しばらく考えてから、はっと気づく。
「接待係の張さんって、もしかして」
昨夜、客人が話しをしたがっているから顔を出すようにと告げてきた人ではないか。
「なんか怒られたとか?」
「ううん……、よくわからないけど、急に客人と話せって言われたの」
「はぁぁ!? なにそれ。昨日の客人って、あれでしょ?」
うんと声を潜めて、『皇・帝・陛・下』と告げてくる。
張さんもそんなことを言っていた。だからこそ、にわかには信じられなかったのだ。
(皇帝陛下が下働きのわたしなんかと、なにを話したいというのよ……)
「ちょっとぉ、まさか見初められて、妾になれとかって誘い!? 大出世!?」
「絶対に人違いよ」
「人違いって……、もしかして、お会いしなかったの?」
「当たり前でしょう。怖くなって、昨日は一晩中莉空を抱きしめて布団を引き被っていたわ」
誰かの意地悪で名前が上がって、さらし者にされる恐れもあった。
面倒ごとにはかかわりたくない。莉空を守るためにも、息をひそめているのが一番だと思った。
しかし、春春は大げさに身を引く。
「信じらんない! もったいない」
「なにがもったいないの?」
「だって陛下って、噂ではすごくイケメンだって言うよ。近くで見られる機会なんてそうそうないのに」
まるで珍獣のごとき扱いだ。
しかし、興奮する春春に反して、水蘭は冷静に答える。
「そんなの興味ないもの」
水蘭の頭の中には、莉空しか住んでいない。
――あの極上にかわいらしく、弱々しく、繊細なあの子を、わたしが守らなくては。
それだけで頭はいっぱいなのだった。