温泉・後編
【後日談3】後編
(まずい、これはまずいぞ)
湯船に顎まで浸かりながら、天翔は慌てる。
女官たちが余計な知識を吹き込んだせいで、水蘭は天翔を警戒していた。ようやく誤解が解けたばかりだというのに、風呂場で鉢合わせなんかしたら大変だ。
(絶対わざとだと思われる)
水蘭のことは大好きだし、できれば距離を縮めたいとは望んでいるが、さすがに無理やり奪おうとか無体なことをしようという気はない。
(なのに、この状況)
どうみても、妃の入浴中に乱入するエロ皇帝の図である。
(だめだ、だめだ、だめだ、だめだ。絶対に見つかってはならない)
一度失った信頼を取り戻すには、恐ろしく長い時間がかかるだろう。
さすがに忍耐強い天翔とて、そんな未来を考えると涙が出そうになる。
(よし、隠れよう)
幸い風呂場は広く、湯けむりで覆われている。物音を立てぬよう細心の注意を払って浴槽の端まで移動した。立派な獅子の形をした蛇口の装飾の影に身を滑り込ませ、息を潜ませる。
水蘭が入浴を終えて出るまでの辛抱だ。
(くそう……いろんな意味で、我慢大会だ)
背後で、ぱしゃぱしゃと水のはねる音が聞こえる。水滴が白い柔肌を弾くのを想像してしまうと――身体の熱がぐんと上がる。
(まずい)
ただでさえ熱めの湯に入っているせいで、すっかり茹であがっている。どこもかしこも熱くてたまらない。
やがて、頭の芯がぐらぐらしてきて――。
天翔は、とうとう意識を手放した。
◆ ◇ ◆
ひと騒動があった。
水蘭は、寝台に横になった天翔の枕もとに腰かけ、扇で彼を仰いでいる。彼は真っ赤な頬をしているが、今は意識を取り戻しており、しょぼしょぼとした目をこちらへ向けていた。
「……すまない、迷惑をかけた」
すっかり意気消沈した様子で、ぼそぼそと謝ってくる。
水蘭は扇で送る風を強くしながら、口を酸っぱくして言った。
「本当に危なかったんですから! たかがお風呂だと馬鹿にしたらいけません。今後は絶対に気をつけてください。もしわたしが居合わせなかったら、大変なことになっていましたよ」
浴槽から派手な水音がしたので、驚いて近寄れば天翔がのぼせていたのだ。柊凜や春春、莉空の手を借りて引き上げ、必死で介抱したのだった。
「すまない……恥ずかしい。消えてしまいたい」
天翔は両手で顔を覆う。
(さすがに言い過ぎたかもしれないわ)
水蘭は慌てて声音を改めた。
「ごめんなさい、心配だったので、つい」
「いや、悪いのは俺だから……」
(なんだか、落ち込んでいる莉空を見ているみたいで放っておけないわ)
実際の天翔は水蘭よりも年上なのだが、彼はやはり弟気質なのだった。
庇護欲がむくむくと湧きあがる。
「天翔様、元気を出して」
「……」
「こうやって、撫でてあげますから」
半渇きの髪にそっと触れる。天翔は驚いた顔をした。
「それとも、あおぐほうがいいですか?」
「いや、撫でてほしい」
「わかりました。いい子にしててください」
弟にするように、慈愛をこめて頭を撫でる。天翔はうっとりとして目を閉じた。
「気持ちがいい……」
「それはよかったです」
「ずっと撫でていてほしい」
「いいですよ。朝まででも、ずっと撫でてあげます」
「朝……まで!?」
頓狂な声で尋ねられて、水蘭は思わず笑ってしまった。
「だって、天翔様はずっとそばで見ていてあげないと心配なんですもの」
「すいらんー……」
うるうると涙目で見つめてくる天翔は、ひどく嬉しそうだ。普段の凜々しい姿も素敵だが……。
(やっぱりわたしは、こういう天翔様が好きなのだわ)
愛おしさが胸の奥からあふれてくる。
水蘭は思わず首を伸ばし――愛しい人の額に口づけを落としたのだった。