温泉・中編
【後日談3】中編
天翔は一日がかりの移動を終え、下車して大きく伸びをした。
今夜は温泉。それから、水蘭と共に過ごす夜が待っている。
(べっ別にやましいことをしようというのではないぞ!)
誰に言うでもなく、心の中で言い訳をする。
本音を言えば、この機会にぐっと距離を縮めたい気もする。する……が! 一歩一歩ゆっくりと進んでいこうと先日決意したばかりである。
(急いては事を仕損じる、だ)
今夜は互いに好きな湯につかり、夜は一つ屋根の下、のんびりと会話を楽しみながらゆったりと過ごせればいい。
(俺は理性のある聖人君子だからな)
ふふんと鼻を鳴らして胸を反らしたところで、水蘭付きの女官、柊凜がやってくるのが見えた。
「陛下、お伝えしたいことがございます」
「どうした」
「水蘭様のことですが……」
柊凜はさも言いにくそうに口を開く。
「ご様子が少々……ご配慮が必要かと思われます」
「まさか車酔いでも?」
「いいえ、そうではなく……、お心が大変乱されてしまったご様子で」
「?」
周囲を気づかい、柊凜はかろうじて聞こえる程度の小声で伝えてきた。
「今宵陛下とご寝所を共になさる件につきまして、わたくしどもが余計なご忠言をいたしました。申し訳ございません」
「……は!?」
青天の霹靂とはまさにこのことだった。
どうやら柊凜の話では、今夜天翔が夜伽を所望していると受け取った水蘭が、すっかり気を動転させているらしい。
柊凜も春春も余計なことをしてくれたものだ。
「俺はそんなつもりで誘ったわけではない」
(いや、ほんのちょっとだけ下心もあったかもしれないが……)
若干の後ろめたさを腹の底へ押し込めて、天翔は首を振る。
「誠に申し訳ございません。大変恐縮ではございますが、陛下から水蘭様へそのような心配はしなくてもよいと一言おっしゃってさしあげてくださいませ」
「わかった。案件を片付けたらすぐに行く。それまで部屋で安静にさせてやってくれ」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします」
一礼をして去っていく柊凜を見送ってから、天翔はがっくりと項垂れた。
(なにを好きこのんで、面と向かって『そなたに手出しはしない』と宣言しなくてはいけないんだ……)
やはりほんの少しでも『あわよくば』と考えたのがいけなかったのか。悪いことはできないのだった。
雑務を片付けて水蘭の部屋へ行くと、さすがに彼女は落ち着きを取り戻していた。
天翔は丁寧に今回の旅行の趣旨を告げる。
「――あくまで視察のついでだ。近くにいい宿泊所を見つけたから、そなたを連れていきたいと思いついたまで。今宵は互いに好きな湯に浸かって心身を癒し、美味な料理をつまみながら、語りあかそう」
「はい。陛下のお心づかいに感謝いたします」
言葉を尽くせば、素直な水蘭はわかってくれた。
どことなくぎこちない空気が流れてはいるが、温泉に入ったり食事を摂ったりするうち解消するだろうと思えた。
「では、俺は一足先に湯に浸かってくる。そなたも落ち着いたら、好きな温泉を選んで入るといい。美肌の湯なんかもあるらしいぞ。詳しい説明は宿のものに聞いてくれ」
「ありがとうございます」
爽やかに、あと腐れなく。
本心では後ろ髪を引かれつつ、天翔は表向きまるで下心などないふうを装って部屋を去った。
もうこうなったら、とことん温泉を楽しむしかない。
「一番熱い湯へ案内してくれ」
たっぷり汗をかいて気分転換をしようと思った。
案内されたのは、湯けむりで真っ白に満たされた広い風呂場だった。
「これはいい」
常よりも熱く肌に沁みる湯に入り、身体を沈めて天井を振り仰ぐ。視界は真っ白で、霞が立ち込める仙界に迷い込んだような錯覚がした。
――しばらくして、脱衣所のほうで物音がする。
清掃でも入ったのかと思って放っておけば、足音が近づいてきた。がらりと木戸を開ける音がしたので、驚きのあまり硬直する。
(誰かが入ってきた……!?)
視界が曇ってよく見えない。相手もおそらくそうだ。気配からして刺客の類ではないだろう。今日は宿を貸し切ってあるし、部下たちが勝手に湯を楽しむはずはない。きっと宿の使用人が誤って入ってきたのに違いない。
と思ったところで……。
「わあ、素敵」
女性の歓声が上がる。
(す、水蘭!?)
信じられないことに、温泉へ入ってきたのは愛しの妃だった。