温泉・前編
【後日談3】前編
釉都の北にある異民族からの防衛拠点が、この度新たに整備されたとか。
天翔とともに摂る夕餉の際、水蘭はそんな話をされてぽかんとした。
「そう……なのですね。なにか戦が近いとか、そういったことなのでしょうか」
対する天翔は朗らかに笑う。
「そうではない。備えあれば患いなしという話をしたんだ。安心していい」
「よかったです」
万が一戦になどなれば、責任感の強い天翔のことだ。自ら出陣すると言いかねない。さらには、武官になった莉空も従軍するようなことになれば、水蘭は心配で夜も眠れなくなるだろう。
「それでなんだが、近々施設の視察へ赴くことになった」
「まあ、どうかお気をつけて」
「いや、その……、施設の近くには、有名な湯治場があってだな」
「はい」
「もしよければなんだが……、そなたも共に行かないか?」
「えっ」
水蘭は驚いて顔をはねあげる。
「朝一番に出かけて到着が夜になる。だから、ついでに湯治場に寄って泊まればいいのではないかと思うんだ。つまり、あくまでも目的は視察だ。妙な勘繰りはしなくてよいぞ!」
なぜか天翔は慌てている。
そのあたりはよくわからないが、水蘭は単純に喜んだ。
「是非行きたいです。ご一緒させてください」
妃になってこの方、後宮から出たことがないのだ。浮かれずにはいられない。
「いいのか?」
嬉々として目を輝かせる天翔に、水蘭も笑顔で答える。
「こちらこそ、わたしが一緒に行ってよろしいのですか? 妃が軍事拠点に行くなんてと、周囲から嫌がられたりしませんか?」
「え?」
「え……?」
なぜかきょとんとされて、こちらもきょとんとする。
「ちょっと待て。違うぞ。俺が誘ったのは温泉のほうだ」
「施設の視察は?」
「そちらは武官を連れて俺たちで行くから、そなたは宿で待っていてくれ。帰りにまた迎えに行く」
「そうだったのですね……」
外出することには変わりない。だが、出鼻をくじかれてしまい、しゅんと項垂れる。
「そのようにがっかりするな。温泉は楽しいぞ。薬効の違う十種の湯があるらしい。そなたもきっと気に入る」
力説されると、それはそれで楽しそうな気もしてくる。
(そうね、せっかく誘ってくれたんだもの。純粋に喜ばなきゃ)
気分を入れ替え、水蘭は笑みを浮かべた。
「わかりました。楽しみにしています」
「よし!」
なぜか天翔は戦で勝った将軍のように拳を天に突き上げたのだった。
数日後、旅支度を終えた水蘭は、用意された二頭立ての馬車に乗り込んだ。世話役の柊凜と春春も同席している。
皇帝である天翔は、先頭に近い位置でさらに立派な馬車に乗っているらしい。離れ離れは寂しいかと思いきや、そんなことはまるでなかった。
なぜなら――。
「見て! 春春!! 莉空よ。馬に乗ってる!」
水蘭は窓にかじりついて叫ぶ。
女性たちが乗る馬車の横には、武官として騎乗の莉空が配置されていたのだった。
「うん、すごいねー……」
「すごいでしょう!? なんて立派なのかしら。この前会ったときよりさらに背も伸びたみたい。あっ風が吹いて、金の髪が――」
「すーいーらーんー」
突如としておどろおどろしい声で呼ばれて、はっとする。春春が半眼になっていた。
「はしゃぎすぎ」
「ご、ごめんなさい……」
「莉空のことより、今夜の心の準備は大丈夫なの?」
「え、今夜?」
なにか大掛かりな宴でも催されるのだろうか。
春春は大げさにため息をついて額を押さえる。隣で、柊凜も柳眉をひそめて身を乗り出してきた。
「僭越ながらわたくしも心配申し上げておりました」
「改まってどうしたんですか?」
「今宵、水蘭様は陛下と共にお宿に逗留されます。今さらこのようなことをご指摘するのは失礼かもしれませんが、一つお部屋で夜をお過ごしになるのは初めてではございませんか?」
「え!」
思いがけない指摘に、水蘭は凍りつく。
「だよね。陛下ってしょっちゅう遊びには来るけれど、夜は律儀に帰っていくもんね。水蘭もそっち方面はどうしようもないくらい疎いし」
「そっち方面って……」
春春は人差し指を立て、ずばり言い切ってきた。
「妃は閨に侍るのが本来の仕事でしょう!?」
天地がひっくりかえったような衝撃で、水蘭は目の前が真っ白になった。