大人の遊戯・後編
【後日談2】後編
天翔が十を数え終わって振り向けば、きっと水蘭の笑顔が目の前にあるのだろう。
そして、仙女のごとく衣裳を翻してゆるりゆるりと逃げるのだ。
天翔はわかっていながら、右に左によける水蘭に騙されるふりをして追いかける。
そして、息が上がってきた頃合いをみて、大袈裟に捕まえるのだ。
手の内で水蘭は頬を赤く染め、こう言うだろう。
『あ~ん、捕まっちゃった。さすが天翔様です~』
(想像するだけでやばい……)
今日は鼻血を噴かないようにしないと。
「十」
期待に胸を膨らませて振り返る。
「……あれ?」
水蘭の姿がない。
慌てて探せば、ずいぶん遠い池の向こう側の木陰に隠れていた。
(そんな馬鹿な)
たった十秒でなぜそこまで逃げた。
まるで捕まる気などさらさらないとばかりだ。
(いや、まさか。きっとあそこからじわじわと近づいてきて、俺を翻弄しようとしているに違いない)
気を取り直して、天翔は彼女のほうへ一歩進む。
予想では、彼女もまた笑顔でこちらへ歩み寄ってくるはずだった。
しかし――、水蘭は背を向けて逃げ出した。もっと遠くへ。
(まさかガチで走るやつか……!?)
天翔が追うだけ、彼女は逃げる。
捕まるつもりなど毛頭ないとばかり。
「陛下! 頑張って捕まえてくださいね!」
うんと遠くから、甘さの欠片もない自分を励ましてくれる声が響く。
まるで鍛錬の先生のようだ。
(こうなったら、意地でも捕まえてやる)
涙目になりながら、天翔は走った。
もともと運動は苦手ではない。だから、走るのが嫌なわけではない。
(ただ……甘い妄想が打ち破られたのが悲しいだけだ!)
速度を上げた天翔に、水蘭が軽く悲鳴を上げる。そして、彼女も鬼気迫る表情になった。
身軽さと小柄さを生かし、木々の合間を複雑に縫って必死に逃げる。
(そこまで真面目に逃げなくてもいいだろうっ)
悔しさから、すべてをかなぐり捨てて天翔は走る。
さすがにいくら水蘭がすばしっこくても、天翔との体力差、体格差は歴然としている。
「はあ、はあ、……っ」
息の上がった彼女はとうとう均衡を崩した。
すぐ後ろまでせまっていた天翔は、勢い余って彼女を背後から強く抱き留める。水蘭は天翔の体重を支えきれず、そのまま前のめりに倒れた。
「危ないっ!」
とっさに横抱きにし、自分が下になるよう地面に転がる。
人間二人分の重みを受けて、腰をしたたかに打ち付けた。
(散々すぎる……)
「て、天翔様! 大丈夫ですか!?」
「大事ない。そなたが無事ならそれで」
強がりを言うが、正直めちゃくちゃ痛い。
「ごめんなさい、わたし、激しく転んでしまって」
「ああ、凄まじい走りだったものな……」
言うと、彼女は頬をぽっと赤くする。
「はい。庶民代表として頑張りました。お楽しみいただけましたか?」
(いや、そこは頑張るところではない)
声を大にして言いたいが、なんとか堪えた。
「あの……、起きあがれますか?」
いつまでも仰向けに寝ている天翔を心配して、先に立ちあがった水蘭が手を差し伸べてくれる。
なんとなくもやもやした心を抱えた天翔は、わざと弱々しい声を出した。
「ちょっと起きるのを手伝ってくれないか?」
「え? こうですか?」
彼女は素直に腰を屈めた。両手を出して、病人にするように天翔の両肩を抱き、起こそうとしてくれる。
その隙をついた。
素早く半身を起こし、無防備な彼女の頬へちゅっと口づける。
「……っ!!」
びっくりした水蘭は、大袈裟に両手を開いて背後へ飛びのこうとした。
だが、そうはさせない。
今度は天翔が両手で彼女の肩を抱き、ぐいっと引き寄せる。
再び水蘭は、横になった天翔の身体の上に馬乗りとなった。
「ちょ……っ、天翔様!?」
彼女は腕の中で慌てて立ち上がろうとするが、がっちりと腰を抱いて身動きを封じてしまう。
「形勢逆転だな。さあ、鬼からどう逃げる?」
「鬼って、もう、捕まったら追いかけっこはおしまいです」
うろたえて視線をあちこちへ流す様子が愛おしい。
もっと困らせてやりたくなる。
「まだ終わりではない。鬼は、かわいい妃を食べつくすまで逃がさないつもりだ」
左手は彼女の腰を拘束したまま、右手で後頭部を逃げられないようにして、徐々に距離を詰めていく。
「あ……待って……」
二人の吐息が近づいていく。
案外、彼女の抵抗は弱かった。
全力で走って疲れたせいもあるだろうが、本気で嫌がっているならもっと強く暴れるなりするだろう。
(いける)
天翔は確信する。
観念した水蘭が、いよいよまぶたを閉ざした。
目もとを赤く染めて、初々しくまつげを震わせている。
これはもう、奪うしかない――。
(とうとう俺の初……)
「お待たせしましたー、お茶とお菓子をお持ちしました!!」
そこへ、元気な春春の声が響く。
「あ」
「……」
地面にもつれ合い、口づけを交わそうとしている恋人たちは、同時に頭から湯気を噴き出した。
「ち、違う違う違う、これは……っ」
「転んだの! わたしが勢いよく! それを陛下がかばってくれて」
磁石が反発するように二人は離れて、それぞれ弁解をする。
春春はなまあたたかい目をこちらへ向けていた。
運んできた盆を適当な切り株の上に置き、頭を下げる。
「お邪魔しました。どうぞごゆっくり」
(いやもう、無理だろう。この雰囲気!)
とても続きができるような甘い空気ではなくなってしまったのだった。
(次こそは、大人の遊戯をしたい)
そしてあわよくば頬に口づけ以上の関係に進みたい。
……なかなか時間がかかりそうだが。
(まあ、じっくりいくさ)
幸い二人にはまだまだ長い時間がある。ゆっくりと距離を詰めていきたい。
このあと、天翔と水蘭は微妙な距離を置いて、無駄に美味しい胡麻団子を食したのだった。