妃の神籤餅
【後日談1】
水蘭は天翔の妃(仮)から本当の妃となった。
とはいえ、すぐに生活が激変したわけではない。
天翔は新しい態勢を整えるのに忙しく、日中も夜もせわしなく動き回っていた。
近々時間を取って、水蘭を正式に妃として発表する儀式を開きたいと言われてはいるが、今のところ変わらず青花宮で彼の訪れを待つ日々を送っていた。
初秋の涼やかな風が気持ちいいとある昼下がり、水蘭は厨房の一角を間借りして、春春と共に菓子作りに励む。
「出来たわ、林檎の蜜煮」
希少な果物と高価な糖蜜を鍋でことこと煮込んだ超贅沢品だ。
水蘭一人で食べるとしたら絶対に遠慮して作れないが、皇帝陛下である天翔に食べてもらうためなので、まったく問題がない。
(ついでに莉空にも食べさせるんだ)
ここ最近で見違えるほど成長した弟は、今や水蘭の身長を抜いてしまった。
日に日に幼さの抜けていく姿を見るのはなんとも寂しく、同時にとても頼もしく感じる。
「喜んでくれるかな……莉空」
夢見心地でつぶやいたその隣で、春春が派手にずっこけた。
「いやそこ! 陛下の名前出してあげて」
「もちろん陛下にも召し上がっていただくわよ」
「そうじゃない。まったくあんたはいつまでたっても変わらないんだから。莉空莉空莉空で、陛下が哀れよ」
肩を大げさに落としてため息をつかれてしまった。
(そんなつもりはないんだけど……)
たしかに以前は水蘭の頭の中は莉空でいっぱいだったが、この頃はいっぱしに天翔のことばかりを考えている。
彼が笑えば水蘭も楽しくなるし、仕事に疲れていれば休んでほしいと願う。訪れのない日は無理をしていないかと心配している。
だからこうして、少しでも元気づけたいと菓子作りに励んでいるのだ。
「ま、こういうの、平和で楽しいんだけどね」
春春は小麦粉に塩を少々まぶした生地を薄く丸く伸ばしながら言った。
「ここに蜜林檎を乗せて包んで、油で揚げればいいのよね」
「そうそう。あ、ちょっと待って、面白い仕掛けをしようよ」
思いついたように春春が厨房をあさりだす。そして、エンドウ豆を見つけて戻ってきた。
彼女は慣れた手つきで莢から豆を取り出すと、水蘭が乗せた蜜林檎の中にそれをぎゅっと押し込む。
「豆を入れちゃうの?」
びっくりして尋ねると、春春は悪戯っぽく右目をつむった。
「神籤餅って知ってる? お菓子の中に一つだけ幸運の証を入れておくの。それを引き当てた人は王様になって、なんでも言うことを聞いてもらえるのよ」
「へえ、面白そうね」
「でしょ」
「天翔様も喜びそうだわ」
「うん。あー、でも、どうだろ。あの人薄倖そうだから、絶対に当たり引かなそうだよね」
(……そうかな?)
わからないけれど、当たりが出ても外れても楽しめればいい。
水蘭は春春と共に蜜林檎入りの神籤餅を完成させて、青花宮へ戻った。
◆ ◇ ◆
仕事を終えた天翔は、急ぎ足で後宮へ向かう。
早く水蘭に会いたい。
なにやら今日は自分のために菓子を作ってくれたとか。そんな報告を受けてから、日中そわそわして仕事に身が入らなかったくらいだ。
「陛下、お待ちください」
と、青花宮に入ってすぐの廊下で呼び止められる。
皇帝の天翔に直接声をかけてくるとは、ずいぶん肝の据わった女官だ。と思ってみれば、水蘭の旧友である春春だった。
彼女の気やすい態度は、無礼とは少し違う。仲良しの水蘭の相方として天翔を扱ってくれているようで、悪くないと思っている。
「どうした」
「実は、大切なお知らせがあります」
彼女は声を潜め、今日の菓子の中にはエンドウ豆を隠して入れた「当たり」があるのだと告げてきた。
「当たりを引いた人は今日の王様になって、なんでも言うことを聞いてもらえるんです」
「ほう、面白いことを考えたな」
「そうです。いいですか陛下。当たりの菓子に、私はこっそり目印をつけておきました。中央辺りに爪で『十』の字を書いておいたんです」
「なぜそのようなことを?」
せっかくの神籤が台無しではないか。
天翔が首を傾げると、春春はにやりと笑う。
「当たりを引けば、水蘭はなんでも言うことを聞いてくれるんです。陛下の望むまま、なんでも、ですよ」
「っ!」
――なんでも。
天翔の脳裏には、ぶわっとあらぬ妄想が浮かぶ。
『では水蘭、目を閉じろ』
『はい、天翔様』
長いまつげに彩られた愛らしい瞳が閉じられる。
たまらなく可憐な彼女に、天翔は覆いかぶさった。
林檎よりも赤く色づく柔らかな唇を、舌先でぺろりと舐める。
『ぁ……っ』
『甘い。蜜の味がする』
『それは、味見をしたから……』
『俺に食べさせるよりも先に食べてしまったのか? 悪い子だ。お仕置きが必要なようだな』
『あ、だめ、天翔様……ぁっ』
『今日の俺は王様だ。だめは禁止。なんでも言うことを聞いてもらうぞ』
『そんな、や……ぁぁ……っ』
――以下自主規制。
「あーっ、陛下、鼻血出てます!」
「なっ」
「待ってください、擦っちゃだめ。今、紙をもらってきますから」
慌てて春春が部屋へ入っていく。
騒ぎを聞きつけた水蘭が、部屋を飛び出してきた。
「天翔様、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……大事、ない……」
(無性に恥ずかしいんだが!?)
穴があったら入りたい気分で肩をすぼませる。
「やはりこの頃お忙しくてご無理をされているんですよ。今日はお菓子など食べずに横になったほうがいいと思います」
鼻に柔らかくした紙を詰めてくれながら、水蘭が言う。
「嫌だっ、食べる」
「陛下ったら。ちゃんと取っておきますから大丈夫ですよ。あとにしましょう?」
肩を支えられるようにして部屋に入ると、水蘭は控えていた柊凜に菓子を指して言う。
「二つだけとっておいて、残りを莉空に届けてくれますか?」
「かしこまりました」
柊凜は器用な手つきで折箱に二つの菓子を詰め、残りが載った皿を取り上げた。
「ま、待った」
天翔は慌ててその皿を覗き込む。
(中央に十の字……、ああ、あった!)
思わず手を伸ばしかけるが、水蘭にぴしゃりと止められた。
「駄目です。食べるのはあとって言いましたよね?」
「言った。言ったが……」
(当たりの菓子が、莉空に行ってしまうー!)
涙目になっている天翔を見て、背後では春春が肩を震わせて笑いをこらえている。
(くそう……! 水蘭にあんなことやこんなことをしてもらうはずだったのに)
邪な想いを抱いた罰なのだろうか。
皇帝なのに、王様になりたいだなんて思ったから、ばちが当たったのかもしれない。
「天翔様ったら、興奮しないで。血が止まらなくなります」
水蘭に促されて、天翔は涙をのんで敷物の上に座る。
水蘭はすぐ横に正座して、自らの太腿をぺちぺちと叩いた。
「ほら、横になってください」
「え?」
「膝枕。してあげますから」
(なんだと……!?)
驚きのあまりまじまじと水蘭を見つめる。
彼女はほのかに頬を赤く染め、どこかぎこちなく視線をさまよわせていた。
(か、かわいい……!)
神籤の王様など、どうでもいい。
彼女のこんなかわいい顔が見られるなら。
天翔はゆっくりと頭を倒し、用意された膝に後頭部を乗せる。
下から見上げた愛しの彼女はやはりとびきりかわいくて、この世の憂いなどすべてが消えてなくなるような気がしたのだった。
読んでくださってありがとうございました。
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