翡翠国
【第56話】
「水蘭、そなたが歌うと瞳が翡翠色に輝き、不思議な光が生まれる。もしや、なにか神秘の力を持っているのか?」
「そんなわけ……」
天翔の突拍子もない発言に、水蘭は苦笑交じりに答える。
だが、途中ではっとした。
――幼い頃、莉空が川で溺れたあのとき。
母の姿を思い出したのだった。
息をしていない莉空を抱きしめて、母は歌っていた。
白陶語がうまくしゃべれないから、悲しみを歌で表しているのだと……幼い水蘭は思っていた。
だが、もしかしたら――歌による神秘的な力で莉空を生き返らせたのだとしたら?
(そんなまさか……)
信じられないとは思う。
だが、現に目の前の天翔からは、太刀傷がすっかり消えてしまった。
それに、今よりもっとずっと幼くて非力だった莉空は、川で溺れて息をしていなかったはずだった。いくら奇跡が起こったとて、息を吹き返したとたん元気になるなんて、ありえない気もする。
「なにか思い当ることがあるのか?」
「はい、実は……」
あの日の話を天翔へ伝えてみる。
母が歌い終えたあと莉空が生き返り、そして母は還らぬ人にとなった……と。
「まさか命を削って相手を癒したということか?」
「わかりませんが、神秘の力を使いすぎて倒れてしまったのかもしれないと思いまして」
推測を述べると、天翔は顔色を変える。
「だったら水蘭っ、そなた身体は大丈夫なのか!?」
慌てたていで肩を摑んでくるなり、強く揺さぶってくる。
「だ、大丈夫ですっ」
胸が苦しいとか息ができないとか、そういう不調はまったくない。
そもそも、もし神秘の力が水蘭にもあったと仮定して、死んだ子供を生き返らせた母と、治りかけの太刀傷を消した自分とでは、まったく力の大小が違う。
だが、天翔はひどく心配し、眉根を寄せて詰め寄ってくる。
「俺の怪我がそなたに移ったりしていないだろうな?」
「していませんってば」
「本当か? とにかく見せてみろ」
焦った彼の手が、水蘭の上襦の胸もとへ伸びてくる。
大きな手のひらが、あらぬところに触れかけた。
とっさに条件反射で、水蘭は喉の奥から金切り声を上げてしまう。
「きゃああっ!」
「水蘭!?」
「水蘭様、どうなされました!」
悲鳴を聞きつけた莉空と柊凜が部屋へ飛び込んでくる。
二人の瞳には、自らの衣裳を乱し、さらには水蘭の胸もとを暴こうとしている天翔の姿が映る――。
「……」
「……」
嫌な沈黙が落ちた。
「ごっ誤解だ!」
天翔は叫ぶ。
続けて通常の三倍くらいの早口で、妙な事情を彼らに説明した。
「――そんなわけだから、俺の怪我を治した水蘭に、傷が移ったのではないかと心配して!」
「でしたら、わたくしが別室で確認いたします」
微妙に軽蔑したまなざしで柊凜が言う。
信じていないのは明白だった。
(ごめんなさい、わたしがつい叫んじゃったせいで……)
ところが、莉空は神妙な顔つきになっていた。
重大な秘密でも打ち明けるように、重々しい口調で言う。
「僕たちのお母さんは、翡翠国の王女だったんです」
「り、莉空!? なにを言ってるの」
水蘭はびっくりして口を挟む。
父は母を溺愛していて、彼女は今は亡き国のお姫様なのだと言っていた。
だがそれは、あくまで夢物語だ。
父の中でそういう設定だったに過ぎない。
母はたしかに美しかった。
どこぞの王女と言われてもおかしくない美貌の持ち主で、父は彼女を大切な宝物のごとく扱い、家から一歩も外へ出さなかった。
対する父は、石を投げれば当たるくらい平凡な一般人だった。
王様でも王子様でもなく、お金持ちでもなく、見た目だってこれといった特徴のない、うだつの上がらない人だった。
そんな父が王女様を娶れるはずはない。
子供心に水蘭は冷めたまなざしで父の戯言を聞いていたのだった。
ただ、莉空は幼かったから素直にそれを信じたのだろう。
「違うんです。父がそう言っていただけで。母は白陶語がほとんど話せませんでしたし、身の上を語ったことはありませんでした」
水蘭が7歳のときに母は死んでしまった。
そのとき莉空は2歳だ。ほとんど覚えていない母に幻想を抱くのは責められない。
「莉空、夢を壊してごめんね。でも、翡翠国なんて国は存在しないのよ」
巨大国家の白陶国は、東の海を隔てた先の瀬戸国や、西の砂漠を越えた先の金剛国と隣り合ってはいるが、翡翠国など聞いたこともないのだった。
けれども、天翔が顎に手を当てて首を傾げる。
「翡翠国……? どこかで耳にした気が」
しばらく考えてから、あっと気づきの声を上げる。
「そなたに渡した玉の産地だ」
「えっ」
いつも帯に挟んで大切に携帯していた魔よけの玉を取り出してみる。
ほんのりとしたあたたかみのある翡翠色の玉。
水蘭が歌ったときの瞳と同じ色をしているとかいう。
「一度貸してくれ。少し調べてくる」
天翔は翡翠玉を手に、部屋を出ていった。