あなたのために
【第55話】
「水蘭、俺のために歌ってくれないか?」
突然、脈絡もなく天翔に請われた。
(どうして、歌?)
そういえば以前にも同じ願いをされた気がする。
莉空を助けてくれたお礼をしたいと言ったら、歌を歌ってほしいと言われたのだ。
「わたし……、前にも歌った異国の歌しか知りません」
「それが聞きたいんだ」
「なぜですか? 珍しいから?」
自分でも決して歌がうまいわけではないのはわかる。
そもそも、小さい頃母が歌っていたのを覚えただけで、調子が正しく取れているかすら不明だ。
「これは言わないでおくべきか迷ったんだが……隠しておくのも、やましいことをしているみたいな気がするから、やっぱり言う」
天翔は秀麗な眉をきりりと吊り上げて改まる。
「実は、そなたを青磁宮で初めて見かけたのは、温室で歌っている姿だったんだ」
「ええっ」
蘭の群生が茂る温室で歌っていたのは――。
人気のない所で泣いていた莉空を励まそうとしたときのことだろうか。
あの日の夜、水蘭は長公主の客人から「話がしたい」と呼ばれたのだった。
人違いだと言い逃れて、行かなかったけれども。
「正面に莉空を座らせて、立ち上がって歌っていた。その澄んだ優しい声と、あたたかなまなざしと、そなたを取り巻くキラキラした雰囲気に心が奪われた」
(……っ)
天翔の熱いまなざしが心に刺さる。
炎の塊でも飲み込んだみたいに、身体が内側から熱くなった。
「あのとき俺は、そなたに一目惚れしたんだろうな。俺のためだけに歌ってほしいと、希ったんだ。だから歌に執着しているというよりは……そなたがほしい。そういう意味だ」
(なんて、まっすぐな気持ちなの)
こちらは照れてばかりで、肝心な言葉一つ返せやしないのに。
爆発しそうなくらい高鳴る胸を押さえて、水蘭は横を向いた。
心の底まで焼き尽くすような彼の瞳を見つめていられなくなったからだ。
(だけど、いつまでも逃げてばかりじゃいられないわ)
自分も同じだけの想いを彼に抱えているのだ。
それを伝えなくては。
今こそ。
覚悟を決めて唇を開いた。
震える声で、一生懸命想いを紡ぐ。
「わたしも……あなたのためだけに……歌いたいです」
「水蘭」
「聞いてくれますか……?」
莉空と水蘭だけの大切な思い出だったこの歌を。
「聞きたい。毎日でも」
(大好きなあなたのために、歌います)
水蘭はゆっくりと身を起こす。
天翔はまなじりを柔らかくして、正面から見つめてきた。
「――……」
密やかな歌声が、二人のあいだに満ちる。
緊張でどきどきしすぎて、心臓が止まりそうだった。
身体中の血という血が沸騰して、頭に集まってくる。
まなうらがぼんやりと白く光った。歌いながら、ここではないどこかへ飛んで行ってしまうような、ふわふわした心地に包まれる。
(蛍が飛んでいるみたい……)
翡翠色をした小さな光が、辺りにぽわぽわと浮かんでいるような錯覚がしてきた。
水蘭の身体から生まれたその光は、ゆったりと宙を飛んで、正面に座す天翔の胸へ吸い込まれていく。
(まるで、わたしの想いを受け取ってくれたようだわ)
神秘の境地に酔いながら、一曲を歌う。
最後の旋律を紡ぎあげたところで、息をついた。
充足感に胸を弾ませて、天翔を見る。
すると、彼はひどく驚いた様子で立ち上がった。
やおら自分の着物の合わせを開き、胸もとを露わにする。
「きゃあ!」
いきなりの暴挙に、水蘭は顔を覆って背を向けた。
(な、なんのつもり!?)
しかし、天翔の焦ったような声が背中にぶつかる。
「水蘭、見ろ! 怪我が治った」
「え……?」
突拍子もない台詞に、思わず振り返ってしまう。
彼はそこに巻かれていた包帯を外し、よく鍛え上げられた健康な肌をさらしていた。
「ここに巫楽に斬られた傷があった。治りかけだったが、時々痛みもした。それが、跡形もなく消えてしまったんだ」
「嘘……」
たしか、血が出るほどの大きな怪我だった。
幸い、思ったほど深くなかったために早期に治ると医者が言ってはいたが、傷跡一つ残っていないのはおかしい。どんなに怪我の治りが速い人でも、簡単に太刀傷の痕が消えるわけはなかった。
なのに――、彼の皮膚にはしみ一つ、ついていなかったのだった。