つけあがっていいの
【第54話】
(わたしが皇后に……!?)
「そんなの無理に決まっています!」
いくら政治に疎い水蘭でも知っている。
皇后とは、有事には皇帝の代わりになって政治を執り行う重要な立場だ。
ゆえに、妃の中でも選ばれた貴族の令嬢しかなれない。
金安那は失脚したが、天翔にはまだ四人の妃がいる。
茶会で見かけた雰囲気から、彼女らは庶民の水蘭と違って金持ちそうな娘たちだったのは確かだ。
順当に四人の中で一番身分が上の者が皇后となるべきだ。
しかし、天翔は水蘭とは違った意味で眉をへの字に下げる。
「無理って、やはり俺のことが嫌いだからか?」
捨てられた犬のごとく落ち込む姿に、なんだかこちらが申し訳なくなった。
「好き嫌いではありません。わたしじゃなくて、皇后は別の方がいいと言っているんです」
「別の方って誰だ?」
「名前はわかりませんが、他にもいらっしゃったでしょう?」
(って、なんでわたし、好きな人に別の女性を勧めているのかしら)
若干不条理な気分になった。
けれども、対する天翔は憎らしいくらいぽかんとしている。
「他に? いないが?」
さすがの水蘭もカチンとくる。
拳を握りしめていきり立った。
「あなたにはわたしの他に四人もお妃様がいらっしゃるでしょう! 皇后はその中の誰かにお願いしてください」
とたん、天翔は目を丸くする。
「待て。そなた誤解しているぞ。彼女らはすべて安那が勝手に後宮に入れた者たちだ。俺は四人を正式な妃として扱ったことは一度もない」
「どういう意味ですか?」
「だから、姉と安那が結託して、自分の意のままになる娘を次々と後宮へ送り込んだんだ。俺は安那と不仲だったし、彼女の息のかかった娘と慣れあう気がなかったから、四人がどういう者なのかほとんど知らないし、顔も思い出せないくらいだ」
真摯な天翔のまなざしが水蘭を貫く。
「俺が傍にいてほしいと望んだのは、そなた一人だ」
大きな手が伸びてくる。
水蘭の両手は、あたたかなぬくもりにしっかりと包まれた。
「それにな、四人はすでに安那の罪に連座して後宮を出てしまったぞ」
「そうなんですか!? 知りませんでした」
天翔はくすりと笑う。
「俺は今までもこれからも、そなた以外の妃はいらない」
(嘘……)
信じられない思いで目をしばたたかせる。
喉の奥から、なにか熱いものがせりあがってきて、鼻の奥が痺れた。
嘘なんかじゃない。彼のひたむきな瞳を見ればわかる。
(どうしよう、すごく嬉しい……)
視界がじわじわと滲んで、うまく見えなくなってきた。
そこへ、遠慮がちな声が割り込んでくる。
「……すみません、僕、席を外します」
(っ、莉空!!)
まるで二人きりの世界に没入していたが、この場には大切な弟も同席していたのだった。
(は、恥ずかしい――!)
身内に恋愛を見られるほどいたたまれないことはない。
見せつけられた幼い弟も、ある意味被害者である。
頬を赤らめ、握りしめた拳をぷるぷると震わせている。
「では、部屋の外で控えていますので」
「待って、莉空」
「失礼します」
水蘭の制止を聞かず、莉空は外へ出ていってしまった。
(やだ、もう……)
今更ながら羞恥がこみ上げてきて、どうしようもない。
水蘭は熱くなった頬を両手で包んでうろたえた。
「図らずも二人きりになってしまったな」
おまけに、天翔が緊張を助長させるようなことを言ってくるから、水蘭はいっそう取り乱した。
「外に莉空もいるし、柊凜たちも控えていますっ」
「それはそうなんだが。水蘭、また……ふれてもいいか?」
「っ!?」
先日、髪にでもさわるのかと思って許可したら、唇にふれられたのを思い出す。
(恥ずかしすぎて死んじゃうっ)
大きく身を引いて、顔の前で腕を交差させた。
「だめっ、だめです!」
「そんなに拒否られると落ち込むぞ」
「ごめんなさい。でも、だめなものはだめで……」
「どうしてだ? 俺を好いてくれているんだろう?」
「……」
「なぜそこで黙るっ」
(だって、こんな気持ち初めてで、どうしたらいいのかわからないの)
ぎゅっと目をつぶり、胸の中で膨れ上がる熱い想いを持て余す。
「よしわかった。そっちがその気なら、少し強引に距離を詰めるぞ」
覚悟を決めたような声に、水蘭は驚いて肩をはね上げる。
「えっ、困ります!」
「困らない。ほら――」
ふわりと優しい香りがしたと思ったら、次の瞬間、彼の腕の中へ囚われていた。
急激に脈拍が上がり、胸の鼓動が激しくなる。
「こうされるのは、嫌か?」
嫌だと言えば、放してくれるに違いない。
(でも、振り払えない)
だめなのに、嫌じゃない。
相反する感情に苛まれる。
「なにも言ってくれないと、つけあがってしまうぞ」
(つけあがっていいの……)
だから、しばらくこうしていてほしい。
あたたかで、広くて、頼りがいのあるこの腕の中に囚われていたい。
水蘭は肩の力を抜いた。
そっとまぶたを閉じて、しばしのあいだ幸福な拘束に身をゆだねたのだった。