ふれてもいいか
【第51話】
「天翔様は大丈夫ですか!?」
水蘭も、天翔に駆け寄って取りすがる。
「ああ、なんとか深手を負わずには済んだ……が、痛みで加減ができなくなった」
それで巫学を容赦なく斬り伏せてしまったのだと申し訳なさそうに言う。
たしかに女性相手に胸へ傷を負わせたのは気が引けるのだろうが、あれだけ強かった相手だ。仕方ないのではないか。
それに彼女はまだ息はあるようだ。
死んだわけではない――。
「えっ!?」
手足を広げて床にのびた巫学の姿を見て、水蘭は度肝を抜かれる。
すでに目を閉ざして意識は失っているようだが、その胸は荒々しく上下して呼吸をしている。
そこまではいい。
――が! 露わになったその身体は、男性のものだった。
巫学が男性だった。
当然、天翔も知らなかったようで、瞳がこぼれそうなくらい目を見開いて驚く。
「信じられん……。安那、そなたは知っていたんだな?」
皇后は巫学に取りすがって涙を流しながら、叫んだ。
「助けてよ! 巫学が死んだら、承知しないから!」
高貴な身分を鼻にかける彼女が、目下の者を理由なく庇うわけがない。
つまりは、二人の許されない関係が浮き彫りになった。
金安那は皇后でありながら、恋人を女官の格好で傍に侍らせていたのだ。
一歩間違えば、皇帝の血を引かない子供を次の皇帝に据えることになったかもしれない。
皇帝殺害未遂の罪に加え、不義密通の罪が加わった彼女は、決して言い逃れできないところまで追いつめられたのだった。
「皇后の印綬を返上し、沙汰を待て」
天翔が朗々と告げる。安那はがっくりと項垂れていた。
そこへ、ようやく複数の足音が近づてくる。
莉空が率いる武官たちだった。
「陛下! 遅くなりました」
「来たか」
「お怪我をされたのですか!?」
「大事ない。先に戻り医師に見せる。皇后とその男を捕縛し、牢へつないでおけ」
「かしこまりました」
それから、武官たちはのびている侍御史を助け起こす。
門番をしていた宦官たちも、すでに助けられて運ばれたあとだった。
「すみません、柊凜たち……わたしの女官たちは無事ですか!?」
焦って尋ねると、武官の一人がうなずいてくれる。
「女性たちは離れた場所に避難していて怪我などはない模様です」
(よかった……)
「水蘭、俺と一緒に戻るぞ」
「はい」
天翔に連れられ水蘭は豆彩宮を出た。
そのまま水蘭の青花宮に立ち寄り、そこへ医師を呼ぶ。
以前にも会ったことのある医師は、手早く天翔の浴びた太刀傷を手当てしてくれた。
「傷は大きいですが、深くはないようです。血もすでに止まっておりますし、無茶をなさらなければそれほどかからず治るでしょう」
(よかった……)
医師の見立てを聞いて、水蘭はようやくほっと息をつけた。
「びっくりしただろう。怖い思いをさせて悪かったな」
天翔は、さっきまでの乱闘なんて嘘みたいに穏やかに言う。
「いいえ、わたしこそ謝らなくては。後先考えず乗り込んでいって申し訳ありません。足手まといになってしまいました」
「それは違う。そなたが来てくれたからこそ大きく事態が動いたんだ。ありがとう」
水蘭の過ちをかばい、感謝すらしてくれる。
彼の大いなる優しさに、胸が熱くなった。
「毒や呪詛、俺に刃を向けたことは一応は罪として問えるが、安那個人の罪だと言い張られれば、それまでだった。だが、性別を偽った女官を手元に置いていたとなれば、一族を巻き込む重大事。姉上ごと失脚させられる」
(たしかにそうだ)
怪我の功名ではないが、結果としてよい流れになったようだ。
「政治的な話はここまでにしよう。それより」
天翔は改まり、咳ばらいを一つ落とす。
「そなたは俺の身を案じて駆けつけてくれたんだろう? まるで莉空に対する態度みたいじゃないか。少しは自惚れてもいいのか?」
「……っ」
莉空のことはもちろん大切だ。
世界で一番愛おしい存在なのは変わらない。
だけど今、水蘭は目の前にいるこの人のことしか考えていなかった。
そんな自分に驚く。
(天翔様が危ないって思ったら、たまらなくなった)
想いがあふれて、身体が自然に動いたのだ。
(それって、やっぱり……この人が好き、だから)
自覚したとたん、ぼっと頭に火がついた気がした。
「いい……です」
「ん? なにが?」
「だから、自惚れてもいいですって、言ったんです……」
「本当か!? だったら……、水蘭。ふれてもいいか?」
彼の視線も熱い。
交差すると、その熱がじわじわと伝わってきて、水蘭の顔はいっそう赤くなった。
いつの間にかうなずいていたらしい。彼の手が伸びてくる。
肩に垂らした髪を一筋さらりとふれてから、長い指はもっと距離を詰めてきた。
(えっ?)
彼の人差し指と中指の先が、水蘭の真っ赤な唇にふれる。
紅でも塗るように、指のはらが敏感なところを優しく撫でてきた。
(な、んで、口……? え?)
戸惑いを隠せず、目を白黒させる。
唇は緊張でぷるぷると震えながら、指が与えてくるあたたかな刺激に耐えた。
「柔らかいな」
身を乗り出して覗き込んでくる彼の瞳には、とろけるような甘い色が浮かんでいる。
心臓が早鐘のように打ちつけ、胸を突き破ってきそうだ。
あまりの恥ずかしさと、身体の奥底から湧き上がってくる謎の甘い疼きで、眩暈がした。
「ぁ……、いや、だめ……」
顔をそむけると、あっさり彼は手を引いてくれた。
「すまない、あまりに可愛いらしくて、つい」
動揺しているのは自分ばかりみたいで、いたたまれない。
でも、彼の眼前から逃げたいとは、決して思わないのだった。