傀儡皇帝
【第5話】
◆ ◇ ◆
その日、白陶国の皇帝、趙天翔は姉の屋敷で歓待を受けていた。
「天翔や、わらわのかわいい天翔。今日もお前の好きな酒や肴をたっぷりと用意したぞ。たんと召し上がりや」
「ありがとう、姉上」
親子ほど年の離れた姉は、皇帝だった父の長女だ。
皇城からほど近い豪華な屋敷に住まい、頭のてっぺんからつま先まで綺羅で着飾っている。
彼女は臣下に嫁いだあとも公主としての誇りを失わず、父の死後は宰相と結託してこの国の政治を牛耳っている、最も権力を持っている女性である。
天翔は、9歳で皇帝位を継いで今年で15年が経つ。
一貫してこの姉に頭が上がらない――ふりを続けている。
なぜならば、姉に逆らおうとした兄弟はすべて殺されたからだった。
姉が求めているのは、言いなりになる傀儡の皇帝。
自我を持ち、意見を述べる存在は全部敵とみなし排除してきた。
すなわち天翔に求められているのは、政治面ではいつまでも頼りなく、気弱で姉を頼りにし、生活面では酒に溺れてどうしようもない皇帝……、お飾りで居続けることだった。
――天翔は馬鹿ではない。
むしろ反対で、幼い頃から四書五経を諳んじる神童だった。
歌舞音曲にも通じており、おまけに兄弟で随一の美貌を誇り、将来を期待されていた。
母親の身分もいっぱしの貴族であり、血筋的にもこれといった問題がない。
年老いた父からは特にかわいがられていた自覚がある。
だからこそ、身を守るために愚鈍な仮面をかぶったのだった。
姉は自分の権力を脅かす存在に容赦をしないから。
(とはいえ、そろそろ阿呆を演じ続けるのも無理が出てきたか……)
24歳でいつまでも「姉上」「姉上」と甘えているのもうすら寒い。
姉は今年で55歳だ。
年齢順には姉のほうが先に死ぬ。いずれ自分の時代がくるはずだ。
そう思って問題を先延ばしにしてきた。
だが、健康な姉にそのような兆候はない。
(凄まじく長生きしそうな予感がするよな……)
むしろ天翔のほうが先にぽっくり逝ってしまいそうである。
(自然死ならまだいいが、暗殺される可能性もあるし)
幼帝ならばいざ知らず、天翔は24歳だ。
姉に隠れて勉学に励み、鍛錬も積む身体は壮健である。
いくら中身が頼りない弟を装っていても、姉にとっては操りづらい存在になりつつある。
姉は次なる傀儡皇帝を欲している。
そのため、早くから自分の娘の安那を天翔の後宮へ入れ、しまいには皇后に据えた。
ほかにも息のかかった娘を何人も後宮へ送り込んできて、後宮勢力をも手中に収めている。
安那に早く子供を生ませて、天翔には譲位させ、また新たな幼帝を立てる――それが姉の理想だ。
用済みになった天翔はほどよいところで暗殺すればいいと考えているに違いない。
(消されたくはないが……、改めて頑張るのもいろいろ面倒くさいな)
長らく続けてきた無気力なふりが、身体に染みついてしまったのだろうか。
いざ行動を起こそうと思うと、腰が重くてたまらない。
(はあー……、無為に時を過ごしているあいだに、どんどんダメ人間になってきた)
名実ともにヘタレな皇帝に成り下がった自分に、がっくりくる。
どれほど高価な酒をつがれ、美人に酌をされても一向に酔えない。
そんな冷めた自分を見咎められる前に、席を立った。
「少し酔いが回ってきた。……庭を散歩してくる。ああ、付き添いはいらない」
橙色に染まった空には、薄紫色の細い雲がたなびいていた。
夕暮れ時の涼やかな風が、ふわりと甘い香りを運んでくる。
(蘭の匂いか)
ふとそちらを見ると、南の庭のはずれに温室らしき建屋を見つけた。
塵一つなく掃き清められた白い石畳の上を進み、誘われるようにそちらへ向かう。
近づいてみると、今度はかすかに人の声が聞こえてくる。
(声……? いや、歌か)
まだ幼さを帯びた若い女性の歌声だ。
古今東西の歌舞音曲に通じている天翔だったが、聞いたことのない歌だった。
興味を惹かれて温室の扉に手をかける。そっと内側に押すと、歌声が明確に聞き取れるようになった。
(異国の歌だ)
広大な領土を持つ白陶国は、砂漠を越えた西の彼方にようやく異国と国境を接している。
近年、東西交易路の発展で異国の商人が都にも行き来するようにはなったが、住みついている異国人はまだ少ない。
(歌っているのは誰だ?)
物音を立てないよう注意して、扉の隙間へそっと身を差し入れる。
すると、丈の低い蘭の群生の中に少女が立っていた。
「……っ」
思わず天翔は息をのむ。
可憐な少女だった。
絹糸のように艶めく長い黒髪に、陶器のごとく白い肌、伏し目がちの目は長いまつげにびっしりと覆われ、鼻筋はすっと通り、杏色をした唇が優しい音楽を紡いでいる。
(異国人らしくはない……が、凄まじく……かわいい)
天翔は茫然として、見ず知らずの少女に見惚れた。