巫楽
【第42話】
廊下を渡り、大きな扉をくぐって豆彩宮の区画を出たところで、巫楽は立ち止まった。
改まった面持ちで振り返る。
なまじ美人は、立っているだけで迫力があった。
「青花宮様、おひとつ、忠告でございます」
「え……」
茶会の終了と共に気を抜いていた水蘭は、不意打ちにうまく対応できずにうろたえた。
皇后や妃たちからの攻撃ならともかく、超絶美人の女官から二人きりになったところで物を申されるとは、夢にも思っていなかったのだった。
「後宮には秩序がございます」
女性にしては低めの声で、説教めいて言ってくる。
「皇后様は皇帝陛下と同等の権威を持つ高貴なお方。かのお方を頂点として、次に貴妃様、淑妃様、徳妃様、賢妃様の四妃様がおります。そのあとであなた様。つまり、末席の妃であることをゆめゆめ忘れませんように」
(そんなのは、わかってる)
だが、面と向かって告げられると、気分のいいものではなかった。
こちらの顔色が変わったのを、巫楽は的確に読み取ったようだ。
妖艶な口もとをほのかに笑ませる。
「後宮入りされて以来、毎日陛下のお渡りがあるそうですね」
「っ」
そんなことも知られているのかと驚く。
実際の天翔はただ水蘭を退屈させないために夕方顔を見せてくれるだけなのだが、周囲からしたらどう誤解されているかわからず、なんともいえない羞恥がこみ上げる。
その弱みを突くように、彼女はずばりと言い切った。
「ですが、それもどうせ初めだけ。いつまでも陛下を独り占めできるとは過信されないほうが、あなたのためですよ」
心臓に氷を突っ込まれたような感じがした。
天翔を独り占め。
そんなことできるなんて思っていない。
そう叫びたかったのに、喉がひきつれて声が出なかった。
巫楽は、重々しい話のあとで、ぱっと雰囲気を切り替える。
突如として、媚びる口調になった。
上目遣いで色めいたまなざしを送ってくる。
「難しいお話はここまでにしましょう。青花宮様、本日はお疲れさまでございました。お詫びにこちらをお持ちください。茶葉と菓子でございます」
流れるように自然な仕草で、綺麗な紙に包まれた茶葉と丸い焼き菓子を手渡してきた。
茶会では飲食を一切させなかったというのに、調子がいい。
(腹立たしいけど、この人の言うことは正論だわ)
遠回しの嫌がらせをしようとしてきた皇后たちよりも、巫楽のようにはっきり言ってくれたほうが水蘭としてもわかりやすい。
(当面の敵は皇后様よりもこっちかもしれないわ)
要注意人物として頭の中に刻み込む。
そして、水蘭も作り物の笑顔を頬に貼り付けた。
「恐れ入ります」
今日は最後まで「恐れ入ります」で乗り切った自分を褒めてあげたい。
◆ ◇ ◆
水蘭を後宮入りさせて以来、天翔は、味方につけた官吏とともに新たな作戦に着手していた。
(名づけて『緊縮財政』だ)
読んで字のごとく、後宮内における予算を大幅に減らしたのである。
これまで妃たちは、長公主の威光を笠に着て、贅沢し放題、やりたい放題だった。
それを、財政担当の宦官を買収することで、彼女らへ渡す金を制限した。
(予算を減らしても、それ以上の額が買収にかかったけどな)
妃へ渡っていた分に上乗せして、宦官たちの懐を潤わせてやった。
短期的には大損だが、大局を見据えての措置だ。
(彼女らが俺に反発して立てついてくるといい)
そうして、隙を見せたところを突くつもりだ。
本来皇后とは、皇帝不在の際には代わりに政務を取り仕切る存在であり、その権力は皇帝に並ぶ大事な存在である。
(だが、金安那にその才はない)
母親の長公主ならいざ知らず、娘は親から美貌は継いでも頭脳は一般的。
その上で、性格には難があった。
散財、享楽を好み、あればあるだけ金を使ってしまうし、悪びれもしない。
生まれながらの高貴な姫君だとばかり、自尊心だけは限りなく高く、非常に自分勝手だ。
なんらかの罪が見つけられれば、それを理由に深く調査して、芋づる式に悪行が暴けるだろう。
(さて、どう出るか)
天翔が派手に動けば長公主に怪しまれる。
また、時間をかけすぎても同様だ。
安那にはなるべく早く、浅はかに動いてもらいたい。
そんなことを考えながら執務をこなし、夕方になって後宮へ戻ってきたときだった。
水蘭がそこにいないのを知り、驚愕する。
かしこまった柊凜がとんでもないことを告げてきた。
「皇后様のお使者がお見えになり、茶会だといって水蘭様をお連れになりました」
「馬鹿な。ここから出すなと言ったのに」
「申し訳ございません。皇后様のご命令は陛下のご命令と同じだと言い切られたものですから、水蘭様も陛下のお立場をおもんぱかられて……」
「そんな詭弁に騙されるな!」
思わず声を荒らげてしまってから、いや違うと頭を抱える。
(悪いのは俺だ)
邪魔者たちを追い出し、後宮解体をしたいと願っていた。
気が急いていた。
可及的速やかに事を進めたいと焦りすぎたのだ。
緊縮財政をすれば、安那は逆上して動くと思った。
彼女の勝気な性格から、怒りの矛先は天翔に向くだろうと考えていた。
しかし、寵姫である水蘭へ牙を剥かれてしまった。
(十分予測できたはずなのに、しくじった)
女官を叱責する権利はない。
自分の見積もりが甘かった。
女官たちには水蘭を青花宮の外へ出すなと言ってあったが、理由までは細かく告げていなかった。そこがまずかった。
水蘭の周りにつけた女官たちは、皇后とのつながりがない者ばかりを選んで連れてきた。つまり新入りが多く、後宮事情に詳しくないのも悪かった。
(完全に俺のせいだ。どうか無事でいてくれ)
居ても立っても居られなくなり、宮を飛び出す。
自ら水蘭を迎えに行こうと思った。
だが、ちょうどそこへ、水蘭は戻ってきてくれたのだった。