蘭室
【第4話】
莉空はしばらく嗚咽を漏らしていた。
ずっとこうして抱きしめて、守っていてあげたい。
けれども、今日は屋敷に大切な客人が来ている。
貴人に鉢合わせでもしたら大変だ。
場所を移したほうがいい。
「莉空、ごめんね。立とう」
水蘭は、弟の細い肩を摑んで立ち上がらせる。
周囲を見回すと、外れの方面に温室を見つけた。
(あそこがいい)
三年前、建てたばかりの頃は女主人が張り切って毎日のように訪れ、花の世話をしていた。
が、数ヶ月もすると飽きてしまったらしく、一切足を踏み入れなくなった。
今では庭師に任せきりとなっており、ろくに手入れがなされていない。
「おいで」
華奢な手を引き、温室へ誘う。
人の手が行き届かずに汚れた小さな扉は、よく見れば縁に白玉と青玉がはめ込まれた美しい装飾をしている。
隅々まで華美な屋敷だ。
軋む扉を押して開けると、甘い香りが鼻孔をかすめた。
白い蘭の群生が二人を迎えてくれる。
「わあ、綺麗ね」
「……」
相変わらず莉空はしゃっくり上げている。
水蘭は屈みこみ、弟の目の高さで優しく問いかけた。
「なにがあったか話せる?」
莉空は無言で首を横に振る。
もともと口数が少ない子で、引っ込み思案で、水蘭以外とはまともに話せない性分だった。
それもいじめを助長させてしまう要因となっていた。
「わたしには、隠さなくていいのよ」
「……平気。なにも、ない」
か細い声が答えるが、強がりだというのがありありとわかった。
(でも、あんまり問いつめるのもよくないわよね……)
莉空は今年で12歳。
人よりも成長が遅いのでまだ10歳以下に見えるものの、難しい年頃だ。
芽生えかけた自尊心を傷つけるようなことはしたくない。
(だからといって、放っておけないんだけど)
水蘭にとってはいつまでも幼くかわいい宝物だ。
この子を想うと胸がぎゅーっと苦しくなるほど愛おしい。
「じゃあ、お母さんの歌を歌ってあげるから、元気だそう?」
気分を変えようと明るく提案する。
莉空はうなずいて、ぺたりと地面に座り込んだ。
水蘭は立ち上がり、弟を見つめながらゆっくりと唇を開く。
「――……」
柔らかい旋律の異国の歌が、紡がれる。
水蘭にはその歌詞の意味すらわからないが、繰り返し母が歌ってくれたから、自然と歌えるようになっていた。
水蘭が7歳のときに亡くなった母は、たいそう美しく、そして儚い人だった。
莉空と同じ金の髪に緑の瞳をしていて、片言の白陶語を話した。
父の話では、母は遥か遠い国の姫君だったらしい。
子供心に、素敵な夢物語だが現実的ではないと話半分に聞いていた。
母の見目麗しさは本物だったが、父は実直さだけが取り柄の一般的な白陶人だったからだ。
どうやったら父のような庶民がお姫様なんかと結婚できるのか。そんははずはない。
だが、父は母を本当にお姫様のように扱っていた。
当時は都ではなく片田舎に居を構えていたのだが、父は母を一歩も外へ出さなかった。
家事の一切を自らが取り仕切り、上げ膳据え膳でもてなし、大切にしていた。
対して、母に似なかった娘の水蘭は父の思い通りに動く召使いのごとき扱いだった。
ひどいことはされていないので不満はなかったが、幼い頃から家事全般を担わせられ、まるで水蘭が一家の母親のごとく家族の世話をしていた。
莉空が生まれてからはその世話ももちろん水蘭の仕事だった。
母はといえば、いつだって穏やかで、のんびりと、静かにほほえんでいた。
どこまでも素直に父を信じ、言うことを聞き、ずっと家にいた。
死の直前まであたたかい笑顔を絶やさない綺麗な人だった。
その点では、父が彼女をお姫様だといったのもうなずける生き様だった。
母の死後、父は自暴自棄になり、朝から晩まで飲んだくれる自堕落な人となってしまった。
不摂生がたたって5年後に亡くなったときには、財産はすべて食いつぶされていた。
水蘭は家を手放してほんのわずかの路銀を作り、仕事を求めて莉空と共に都へやってきたのだった。
たかだか12歳の田舎娘を雇ってくれる先は、なかなか見つからなかった。
しかも、働けない弟付きだ。
職探し中、何度か危ない目にも遭った。
売春宿に売られそうになったことも数知れない。
けれども、諦めず探す中でようやくここにたどり着いた。
採用の条件は見目が麗しいこと、という馬鹿げた話だったが、幸いにも水蘭はそこを突破できたらしい。
(嫌なことはいっぱいあるけど、ここで頑張らなきゃ)
大切な弟を守るためにも。
(わたしにとっては、莉空がすべて)
なにより大切な宝物を想って、水蘭は母が残した歌を紡いだ。