好きだ
【第38話】
水蘭は、莉空を伴い夕涼みの宴の会場へ向かった。
後宮の北側の庭――、
徐々に賑やかな喧騒が近づいてくる。
まもなく会場が見えてきそうだ。
歩みは次第に速くなり早足に、そのうち自然と裾の長い下裙を摘まんで走っていた。
(天翔様に会わなくちゃ。早く……謝らないと)
その気持ちだけが、胸の中で膨らむ。
やがて、人垣が見えてきた。
女性の集まり特有の、様々な香りが混じった匂いが鼻をつく。
「僕は会場には入れない。ここまでだから」
莉空がそう言って立ち止まる。
「一緒に来てくれてありがとう」
「ううん。ちゃんと頑張ってきてね」
「それじゃ」
早口で別れを告げると、水蘭は意気込んで会場の中庭へ足を踏み入れた。
「誰ですか?」
年配の女官に見咎められて、腕を摑まれる。
「あっ、すみません。わたしは……」
慌てて名乗ろうとするが、彼女は水蘭の豪奢な服装を見て、はっとする。
「もしや、陛下の?」
その声に、周囲の女官たちが一斉に振り向く。
ざわめきが水蘭を包んだ。
「あの、ええと……」
戸惑っていると、さらに喧騒が大きくなる。
「来てくれたのか、水蘭」
人垣の奥から、凜々しい声が響き渡る。
同時に、波が引くように人垣が割れて道ができた。
開けた視界の向こうに、天翔がいた。
空色の縁取りをした白の長衣に、濃い青の飾り帯を締め、頭上には黄金に輝く満月を背負って立っている。
「陛、下……」
思わず呼ぶと、彼はにっこりとほほえんだ。
すべてを包んでくれるような表情を見て、早くも胸がいっぱいになる。
「こちらへ来い。そなたの席は俺の隣だ」
見えない糸に引かれるように、水蘭は歩く。
一歩進むごとに、底なし沼に引きずり込まれていくようだ。
もう、後戻りはできない。
「捕まえた」
指先が、あたたかなぬくもりに捉えられる。
その瞬間、背筋に雷が落ちたような心地がして、茫然と立ちすくんだ。
(天翔様……わたし……)
「こちらへ」
口をぱくぱくさせているうちに、肩を抱かれて敷物へ導かれた。
正面には月光を宿した群青色の池が広がっている。
敷物の上には、銀の杯や果物がのった高坏の盆、鶏の蒸し物や炒った蓮の実の皿などが所狭しと並べられていた。
「酒は飲めるか?」
唇へ、銀の杯が寄せられる。
つい口を開いてしまえば、とろみのある液体が舌の上に転がった。
(甘い……)
ふわっと鼻に抜ける香りは桂花だろうか。
美味しいが、飲んでしまったあとではっと我に返る。
前に芝居小屋で誤って一舐めしただけで、眠りこけたのを思い出した。
「ごめんなさい、お酒は得意ではないみたいで……」
「そうか。ならば茶を持ってこさせよう」
皇帝の言葉を受けて、傍に控えていた女官がすぐさま動いた。
湯気をくゆらせた茶壺を運んでくる。
(あ……、茉莉花の香り)
これなら飲める。
早速いただくと、甘みでいっぱいだった口内がすっきりとした。
ようやく落ち着きを取り戻し、まともな言葉を紡ぐことができる。
「わたし、陛下にお伝えしなければいけないことがあります」
「偶然だな、俺もだ」
天翔は月を宿した優しい目でじっとこちらを見つめてくる。
「今日は俺から先に言おう。大切なことを伝えそびれていたんだ」
「はい」
彼は一息つくと、真摯な声で言った。
「俺は、そなたのことが好きだ」
(好き……? 天翔様が、わたしを?)
大きな目をさらに大きく見開いて、水蘭はしばし呆ける。
「そこまで驚かなくてもいいだろう。結構ほのめかしてきたと思ったんだが、全然伝わらなかったな」
伝わらなかったどころではない。
あまつさえ、天翔は莉空に関心があるのだとまで誤解した水蘭だった。
それほど、自分が誰かに恋愛感情を向けられるなんて、考えたこともなかったのだ。
(だって、わたしの世界には、莉空しか住んでいなくて)
けれども、最近はそうでもなかったのを、うっすらと気づいてもいた。
(天翔様のことを考えては、もやもやして……苛立っていた)
この感情に名前をつけるのなら――恋、なのだろうか。
(嘘! 嘘……、信じられない。こんな……)
恥ずかしくてたまらない。両手で顔を覆ってうつむいた。
すると、天翔は慌てたようにやや声の調子を高くする。
「待て。その反応はまさか、嫌がっているのか?」
そうじゃない。
でも、顔は上げられない。
だって今両手をほどいたら、ゆでだこみたいに真っ赤に染まった頬が見られてしまうから。
「水蘭、頼む。ちゃんと顔を上げて、俺に応えてくれ」
なのに――、必死に哀願されたら、手からゆるゆると力が抜けた。
とうとう視線を捉えられる。
彼は、ひたむきなまなざしで訴えかけてきた。
「嫌なら嫌でいい、はっきり断るんだ。そうすれば俺は金輪際そなたに身勝手な想いをぶつけないと約束する。だが、もしほんの少しでも嫌じゃないと思ってくれるなら……俺の手を取れ。悪いようにはしない」
祝・ヘタレ卒業!?
読んでくださってありがとうございました。