男色疑惑
【第35話】
皇帝の男色疑惑――。
水蘭は、今なら衝撃で死ねると思った。
(天翔様の本命は……、莉空!?)
開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。
そのまま顎が外れて、息も止まって、ご臨終までまっしぐらだ。
対して、柊凜の語りはさらに熱量を増し、早口で回る。
「女官仲間たちも皆おかしいと思いつつ、公に口には出せずにいたのです。これまで陛下は特定の女人にご執着されたことがなかったのですが、急に水蘭様をお連れになって。どういうことかと噂になっておりましたが……それがまさか、まさか――禁断の恋だったなんて! でもでもっ、わたくし決して口外いたしません。ご安心くださいませ」
柊凜は手に汗を握り、鼻息荒く宣言してくる。
「……」
水蘭は、ただただ茫然としていることしかできなかった。
それからまる一日が経った。
水蘭は自分がどうやって息をしていたのかさえ覚えていない。
ぽかんとしたまま日が暮れ、夜を過ごし、ぼんやりしたまま朝を迎え、茫然としているうち日が高くなって……また夜になった。
「夕涼みの宴はまもなく始まります。そろそろお支度をなさいませんと」
ようやく我に返ったのは、おずおずと告げてきた柊凜の言葉だった。
(天翔様の奥様方を歓待する宴)
いったい、彼はどういう意図をもって水蘭をそこで働かせたいのか。
それとも、なにも考えていないのだろうか。
(しかも本命は莉空のくせに? 意味がわからないわ)
苛つきが募ってきた。
ほとんど八つ当たりと知りながら、柊凜を冷たく見やる。
「わたし、行きません」
「えっ」
「今は陛下と会いたくないんです。申し訳ないけれど、あなたももう下がってください」
「……」
強く言い切りすぎたかもしれない、柊凜は困ったふうに肩をすくめながら、背を向けた。
とぼとぼと部屋を出ていく姿を見て、罪悪感が湧いてくる。
(ごめんなさい……でも、なんだか余裕がなくて)
それもこれも、天翔のせいだ。
まる一日放心し続けてからようやく人心地を取り戻した水蘭の胸には、遅れてじわじわと怒りの炎が燃え広がってくる。
(最初から莉空が目当てだったなんて)
天翔は莉空を魔の手から救ってくれたはずだった。
それなのに、完全なる裏切りだ。
神様のようにいい人だと思っていた。信用していたからこそ、谷底に突き落とされたような絶望に襲われる。
(たしかに、何度かおかしいとは思ったわ)
その都度、違和感を突き詰めて考えるべきだった。
自分の浅慮さに呆れてしまう。
水蘭には仕事をさせず部屋へ閉じ込めておいて、莉空は自分と常に行動を共にする花形武官なんかに推薦した。
そこになにも理由がなかったなんて、あるわけがない。
(ひどい。……許せない)
かわいい莉空に手を出す輩は、誰であろうと水蘭にとって敵だ。
(嫌いよ、あんな人。いい人のふりをして、騙して)
顔も見たくない。
このまま目と耳とを塞いで、ここから逃げ出したいとさえ思う。
そこで、はっと我に返った。
(逃げている場合じゃないわ。莉空はどうするの?)
いつだって、水蘭は莉空のことを一番に考えていたはずだ。
なのに今、どうして自分だけ逃げようとしたのだろう。
それに興奮しているとはいえ、怒りの方向がおかしい。
莉空に手を出されたから怒っているのではなく、自分が騙されたのが悔しいのだ。
(どうして? わたし、変……)
胸に巣食う黒い感情を持て余している。
(この気持ちはいったい?)
考えれば考えるほど、混乱の糸はこんがらがってほどけなくなった。
しばらくして、力強い足音が近づいてくる。
柊凜ではない。男性のものだ。
天翔に違いない。
水蘭は身を硬くして、無言で待った。
外側から扉が叩かれる。
「水蘭?」
しかし、予想に反して天翔ではなく莉空の声がした。
とっさに声を上げかけて、慌ててのみこむ。
(どうせ天翔様も一緒なんでしょう?)
侍従武官見習いの莉空は一人でここに来られないと、先日聞いたばかりだった。
水蘭は両手を胸の前で組み、後ろを向く。
「いるんでしょう? 開けるよ」
鍵は掛けていない。
どうせ掛けたとしても、天翔ならなんなく壊して開けられるだろう。
前に陳生の部屋に掛かっていた鍵を、あっさりと力業で開けたのをこの目で見ている。
「開けるからね?」
遠慮がちに扉が開かれた。
隙間から身体を滑り込ませてきた莉空が、咎めるような声を出す。
「水蘭! やっぱりいた。どうして返事をしないの?」
気弱な弟らしからぬ強い口調だ。
しかも、少し前までは甲高かった声が、裏返りかすれてきている。
「もう宴が始まるよ。陛下が待っているから早く行こう」
「……行かない」
「どうして? 昨日はあんなに乗り気だったのに」
「状況が変わったのよ!」
たまらず振り返る。
昨日よりもなお大人びたまなざしをした莉空がそこにいた。
水蘭はふらふらと歩み寄ると、弟の肩をつかむ。
柔らかかった子供のものではなく、しっかりとした少年のものに成長していた。
「わたしたち、陛下に騙されていたのよ」