化粧
【第31話】
そうして五日ほどが過ぎた。
さすがに、無賃飲食どころか三食昼寝付き貴族生活のような暮らしに疑問を感じる。
そろそろ水蘭の処遇を決めてもらわねばならない。天翔へ直訴すべきかと悩み始めた頃、当の彼が夕方こちらへやってくると聞かされる。
「湯浴みをなさいますか?」
突飛な提案をされて、水蘭はびっくりする。
(みそぎ的な? 皇帝陛下に会うのって大変なのね)
青磁宮にいたときと違い、天翔は気軽にこちらへ足を運べないようなのだ。
きっと皇城には厳しいしきたりがあるのだろう。
水蘭は緊張に肩をいからせる。
「それが正式な礼儀なのでしたら、入ります。儀式的な入り方があるのなら、教えてください」
しかし、今度は柊凜がきょとんとする。
「いえ、礼儀というほどでは……」
「え、入らなくてもいいんですか? 儀式は?」
「儀式などはございません。湯浴みはお好みの問題かと存じます」
よくわからないが、こちらの気持ちの問題らしい。
「……それなら、このままでもいいですか?」
「もちろんでございます。それでは、お着替えを」
「この格好だと失礼なんですか?」
下働きのお仕着せとはまったく違う、十分綺麗な襦裙姿なのだが。
「いいえ、そういうわけではございませんよ。ではせめて、お化粧を」
「?」
話が嚙み合っていない気がする……。
(お風呂に入ったり、着替えたり、お化粧したり、どうして必要なの……?)
疑問でいっぱいながら、結局柊凜に促されるまま化粧台に座った。
菊型をした琺瑯の入れ物を開けると、いい香りがただよう。
淡雪のごとく細やかな白粉をはたかれ、唇には紅を差された。
鏡に映る自分を見て、思わず感心のため息をついてしまった。
(大人っぽく見える……)
化粧とはすごいものだ。
生まれて初めての体験だが、ずいぶん印象が変わる。
「すごいですね。別人みたいになりました」
「目元に紅と墨をのせると、もっと華やかになりますよ」
「目元はちょっとやりすぎな気もするので、また今度でもいいですか?」
「もちろんでございます。これだけでも十分お綺麗ですもの」
以前、青磁宮で医師の手当てを受けたときも思ったが、自分が自分でないようで落ち着かない。
「それでは、わたくしはこれで。なにかございましたらお呼びください」
出来栄えに満足したのか、柊凜は得意げにうなずきながら部屋を出ていった。
一人になって、水蘭はそわそわと部屋を歩き回る。
(天翔様が来る)
会ったら開口一番、仕事をほしいと訴えなければ。
非常に切実な問題だ。
だから、早く夕方になってほしい。
今すぐ彼に会いたい。
それから、莉空がどうしているかも訊きたい。水蘭同様、部屋で暇を持て余しているかもしれないから。
(早く来ないかしら。待ち遠しいわ)
彼を思うと、胸が高鳴る。
まるで恋人を待つかの想いだ。
「って、なに考えているの、わたし!」
自分で自分の考えに慌てて、両手をばたつかせる。
一人の時間が長かったせいで、どうやら少しおかしくなってしまったらしかった。
それからも、焦れる気持ちをなだめながら時を浪費し、やがて気だるげな夕陽が差し込む時間になった。
いよいよ廊下を渡ってこちらへ向かってくる足音を耳に捉え、水蘭は部屋の戸を勢いよく開け放つ。
扉の上部に据えられた黄金の飾りと玉の板がぶつかり合い、夏らしい音が響き渡った。
「水蘭」
飛び出してきた水蘭を見て、天翔は驚いたようだ。
歩みを止め、こちらをしげしげと見つめてくる。
「数日会わなかっただけで見違えた」
「えっ、あ……、柊凜さんがお化粧をしてくれたから……?」
「いや、きっと俺の会いたい気持ちがつのったせいだろう」
なぜか、胸がきゅーんと苦しくなった。
彼に会いたかったのは水蘭も同じだったはずなのに。
(同じ……はず、よね?)
どうしてか、いたたまれない心地に襲われて、軽く眩暈がした。
だが、天翔の背後からひょっこりと顔を出した人物の姿を見て、水蘭は我に返る。
「莉空!」
なんと、大柄な天翔に隠れて、そこには莉空がいた。
藍色の着心地よさそうな長い袍に、黒く太い帯を締め、袖口と脛から下は動きやすく絞られた服を着ている。
髪も頭上で小さな団子にまとめられ、服と揃いの布でかっちりと包まれている。
馬子にも衣裳と言うべきか、いや、この場合はふさわしくない言い回しかもしれない。
いつも薄汚れた麻の単姿でいた小さな弟は、見るも立派な皇城の武官姿でそこに立っていたのだった。