柊凜
【第30話】
(ひとまず待機ね)
新しい仕事を始めるのだ。教えてくれる先輩の都合もあるのだろう。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので、指示があるまでおとなしくしていることにした。
姉弟は少し距離の離れた別々の部屋をあてがわれ、それぞれ自室で待機する。
(それにしても、立派な部屋ね)
水蘭は、与えられた自室をぐるりと見回す。
晴れやかな緋色に塗られた柱、白い石を砕いて塗りこめたきらめく白壁、南向きに造られた丸が四つ合わさった花の形の窓からは、あたたかな光が差し込んでいる。
家具は、壁際に黒檀の化粧台と小さな椅子が一組あった。縁や脚に精緻な蔓草の模様がびっしりと刻まれた細工物だ。
化粧台の上には、金に輝く蓮花の形の燭台と、銀の手鏡が置かれ、引き出しを開けてみれば硝子の小瓶や琺瑯の小物入れが詰まっていた。
(綺麗……)
一つ一つ蓋をつまんで開けてみる。
どれにも見たことのない化粧道具が詰まっていた。
部屋は北側に遮光幕で仕切られた小部屋がもう一つあった。
どきどきしながら覗いてみると、窓のない寝室になっていた。
大人一人が横になるのにぴったりの大きさの細長い寝台と、その上には錦でくるまれた布団、そして上質な絹だと一目でわかるつやつやとした夜着がきちんと畳まれていた。
「莉空、すごいね」
思わずここにはいない弟の名前を呼んでしまい、はっと口をつぐむ。
(今日から莉空は別の部屋なんだ……)
いずれは来るべき日だった。
だが、覚悟を決める時間がなかった。
胸に穴が開いたような心地がする。
たった一人で過ごすのは、生まれて初めての経験なのだった。
(こんなときこそ、一生懸命仕事に励んで、いろいろ忘れたいな)
寝台に腰かけ天を仰ぐ。
部屋の天井には季節の花々が細やかに描かれているのに気づいた。
(どこからどこまでも綺麗なお屋敷)
青磁宮も立派な屋敷だったが、下働きの水蘭は基本廊下や外回りしか歩き回らなかったし、使用人部屋は機能性しか重視されていない平凡な建屋だった。
こんなふうに素晴らしい部屋で、たった一人のんびり過ごした試しなど生まれてこの方一度もなく、落ち着かない。
(しばらくなにをして待てばいいんだろう……)
隣に莉空がいない空虚さも相まって、退屈でどうにかなりそうだった。
初日は部屋に夕食が運ばれてきて、一人でいただいた。
白いご飯に焼いた川魚、甘く煮つけられた山菜に、酢の物、煮豆に蒸した鶏肉、そして甘い瓜のような果物……。
量は少量ずつではあったが、皿が多すぎて、見た目だけで満腹になりそうだった。
それでも、残すなんて失礼だと思ったから、目を白黒させながら必死に食べきった。
「食後のお菓子を召し上がりになりますか?」
「ありがたいですが、もう十分です。次はこの量の半分くらいにしてください」
平身低頭でお願いすると、配膳に来てくれた女官は困った顔をする。
「一緒に片づけてもいいですか?」
「とんでもございません。どうぞお座りになってください」
食い気味に固辞されて、諦めて手を引っ込めた。
(そうよね。ここにはここの決まりがあるんだろうし)
突然やってきた新入りが、まだ仕事先の所属も決まっていないのに勝手に配膳を手伝ったらよくないのだろう。
ならば、今すぐ部屋を飛び出して莉空を探しにいきたいが、それも迷惑をかけるのがわかったから、ぐっと堪えた。
翌日も似たような忍耐の時間を過ごした。
女官の一人が、退屈しのぎにと楽器や双六、絵巻物を差し入れてくれたが、そういった遊びとは一切無縁だった水蘭には手が出せない。
戸惑っていれば、今度は刺繍道具を持ってきてくれた。
「わあ……、七色の糸!」
これは少し心がときめいた。
「どうぞご自由にお使いくださいませ」
女官は白絹を木製の刺繍枠にはめて、水蘭へ渡してくれる。
「……でもわたし、刺繍なんてしたことがなくて」
針仕事自体は初めてではない。
服が破れれば繕うし、簡単な釦つけくらいはする。
だが、高貴な人々が窓辺に座って手巾に花鳥風月を縫い取るような真似は、一度もする機会がなかった。
「わたくしがお教えいたしますよ」
「えっ、ですがほかの仕事がお忙しいのでは?」
「いいえ。わたくしの仕事は水蘭様のお相手でございますから」
「!?」
新しい屋敷に慣れないだろう水蘭を想っての、天翔の気づかいなのだろうか。
(ありがたいけど、申し訳ないわ)
複雑な気分で指を組んだり弾いたりする。
「わたしに『様』はやめてください。それと、あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか?」
「わたくしは柊凜でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
刺繍を教えてもらうのは水蘭なのに、彼女からよろしくされてしまった。
水蘭は恐縮しきって『こちらこそ』と頭を下げるので精いっぱいだった。