かわいい弟
【第3話】
趙天翔は、在位十年を超える若き皇帝だ。
先代の皇帝の死を受けて10代そこそこで帝位を継ぎ、親子ほど年の違う姉の長公主や宰相の補佐のもと玉座にいる。
姉弟仲がいいのか、それとも単に尻に敷かれているだけなのか知らないが、長公主は毎日のごとく皇城へ行って皇帝の世話を焼き、時々は皇帝を自宅へ招いて歓待している。
今日の宴も、姉主催の『弟を労う会』なのだろうと推察される。
(まあ、わたしには関係ないけど……)
下働きの水蘭に許された仕事は、廊下や外回りにちなんだ雑事だ。
貴人と顔を合わせる機会はない。
彼らが日々宴に明け暮れようが、なんだろうが、まったく無関係であった。
(本当だったら厠掃除もわたしの担当じゃないんだけど……)
廊下の隅にある厠は、室内に当たる。
外回りの仕事を請け負う水蘭とは関係のない仕事だ。
しかし、厠という汚れる場所のせいか、皆が避けがちな仕事であり、必然的に力関係の弱い者へ押しつけられるのが常だった。
もともと同じ仕事を請け負う同部屋の先輩三人衆、菊花、牡丹、撫子も、上の立場にいる人物から厠掃除を言いつけられており、巡り巡って水蘭へたどり着いているのだ。
意地悪三人組もまた誰かから意地悪されていると思うと、なんだかおかしくなってくる。
(まあ、どうでもいいか。さっさと済まそう)
掃除中に誰かが来ないよう願いながら、仕事に従事する。
たとえ上役に見つかったとして、水蘭が見咎められるというより、もともとの担当者が叱られるのだろう。
とはいえ、結局巡り巡って最終的に菊花たちから水蘭が怒られるのだが。
『あの子が勝手にやった』とか言われるのに決まっている。
時間をかけず、かといって手を抜かず、厠掃除をこなした。
その後は乾いた洗濯物を取り込み、片づけた。また、先ほどやりかけていた庭掃除に戻り、遅れて日中の仕事を終える。
「今日も頑張った! さて」
夕方から食事までの自由時間は、弟と過ごす水蘭にとって一番大切なひとときだ。
一度部屋へ戻って着替えてから、弟を探しに向かった。
まだ働けない年齢の弟、莉空は、水蘭がここに就職する際、
『布団も食事も一人分でいいから』
と頼みに頼み込んで一緒に住まわせてもらっている。
莉空は日中、仕事の邪魔にならないように、ほとんど使われていない西の中庭で遊ばせているのだった。
「莉空ー?」
雑草が生い茂る新緑の庭園内を見回した。
苔むした石に囲われた濁った池の周りにも、伸びっぱなしの庭木の陰にも、莉空の姿はない。
厠掃除を二度もやらされたから、今日は仕事終わりが遅くなった。
もしかしたら水蘭を待ちきれずに探しにいったのかもしれない。
(着替えに部屋へ戻ったりしたから、すれ違ったのかも)
洗濯を干しているのは南側の庭だ。
莉空は庭伝いにそちらへ回ったのかもしれない。
(たいへん)
あそこには、金魚が放し飼いにされている綺麗な池がある。
(もし落ちたりしたら……)
それだけではない。
客やその従者たちが酔い覚ましに庭でも眺めようと出てこないとは限らない。
下働きの子供がうろうろしていれば、見咎められるだろう。
水蘭ならば多少きつく叱られたとていい。
謝り倒して場を収められる。
しかし、莉空は違う。
必ず、別の部分を目につけられてしまうのだ――!
「莉空! 返事して、どこにいるの?」
子供なら難なく通り抜けられるだろう藪をかき分けて、南側の庭へ急ぐ。
「……っ」
しばらくして、小さなしゃっくりあげる声が聞こえた。
はっとして振り返る。
膝が隠れるくらいの草藪に、磨いた鼈甲よりも艶やかに輝く黄金色の髪がふわふわと揺れていた。
「莉空!」
膝を抱え、顔をそこへ埋めて泣いている弟を見つけ、水蘭は胸がぎゅっと締めつけられた。
無我夢中で駆け寄り、肩に手を置く。
「誰かにいじめられたの?」
細い肩がびくりとはねて、小さな顔が上げられた。
雪よりも白く透き通る肌に、深い湖のごとき緑色の瞳。
高い鼻筋。
一目で異国人の血を引くとわかる容貌だ。
黒髪黒目が一般的な白陶国で、この子は目立ちすぎる。
同じ両親から生まれた水蘭は、多少肌が白くて髪質が繊細ではあるが、そこまで異国人の血はわからない。
水蘭が白陶人の父似で、莉空は異国人の母似らしい。
問題は、目立つことだけではない。
莉空は、どこを切り取っても輝くばかりの顔立ちをしており、少年特有の脆さと相まって絶妙な美しさを持っている。
それはどうやら、人々の嗜虐心を煽るらしいのだ。
道を歩けば常に好奇の目にさらされ、些細な事で突っかかられる。
不憫な弟は、水蘭にとって世界で一番大切であり、全身全霊をもって守るべき存在だった。
(どんな悪意からも、守りたい)
水蘭は、嗚咽を漏らす弟の肩を優しく抱きしめた。