後宮入り
【第28話】
天翔の言う俺の城とは――、つまり皇城である。
「莉空を一時的に匿っていただけるということですか?」
「違う。ここを辞去して、俺のもとへ来いという話だ。もちろん、二人で」
(それってまさか……)
水蘭は目を輝かせた。
ずいっと半身を乗り出す。
「お城での仕事をあっせんしていただけるのですね!?」
なんてすばらしい誘いだろう。
長公主の魔の手を逃れるには、やはり青磁宮を出ていくのが一番だと思っていたが、先を考えるとなかなか踏み出せずにいた。
そんな水蘭たちを、天翔が皇城で雇ってくれるという。
ありがたいことこの上ない。
神様に祈る気持ちで両手を組み合わせる。
(皇城で働けるなんて夢みたい)
本来は身元がしっかりしていないと下働きでさえ雇ってもらえない。
待遇だって青磁宮よりずっといいだろう。
しかも、格上の皇城へ転職するとなれば、長公主とてきっと引き止めはできない。
「わたしたち、どんなお仕事でも喜んでいたします」
「……本当か?」
やや低くなった天翔の声が尋ねてくる。水蘭は語気強く宣言した。
「はい! 誓って」
見つめ合う彼の目に、不思議な揺らぎが生まれる。
口の端がどこかぎこちなく吊り上がった。
(え、なにかしら……?)
妙な予感に胸がざわめく。
けれども、それを追求する前に、天翔が立ちあがった。
「では、このあとすぐに姉上と掛け合い、そなたたちをもらい受ける」
「あ、あのっ、天翔様のお話というのは……?」
なにか水蘭に相談があるようなことを言っていなかっただろうか。
「それはもう済んだ。もとからそなたを皇城へ誘うつもりだったのだ」
「本当ですか!?」
「ああ。善は急げだ。今夜中に支度しておけ。明日の午前中には迎えの車を寄こすから」
性急すぎるが、莉空の身の安全を考えれば早いほうがいいのだと思い返す。
「わかりました。どうぞよろしくお願いします」
真面目に頭を下げると、天翔が近寄ってくる。
目の前までくると、ふと手を伸ばしてきた。
水蘭の黒髪を一房つかみ、するりと毛先までたどって……手を離した。
「……っ、な、なにを!?」
弟以外の異性に髪などさわられたのは初めてで、吃驚する。
けれども、天翔はなんでもないとばかり、平然と背を向け、戸口へ歩いていった。
扉を開くと、ようやく振り返る。
黒曜石のごとき瞳には、艶麗な光が宿っていた。
「ではな、また明日。後宮で会おう」
(コウキュウ……、わたしたちの新しい職場)
青磁宮とかそういう名前の一種だと勘違いして、口の中で何度も繰り返す。
まるで庶民の水蘭はこの時まったく知らなかった。
後宮が、皇帝の妃たちの住まいだということを――。
◆ ◇ ◆
それより十日ほど前、陳生の手から莉空を助けた天翔は、精力的に活動を進めていた。
酒の相手がほしいといって、若手の官僚たちを集めて夜な夜な飲食を共にした。
一見、自堕落に遊んでいるようだったが、実は違う。
味方づくりを始めたのだ。
これまで権力を押さえつけられていた天翔には、味方がほとんどいない。
高位の官たちは姉の言いなりばかりである。
また、皇帝の私生活を支えるはずの後宮勢力も、姉の一派に占拠されている。
皇后の金安那は姉の娘だし、他四人いる妃たちもすべて皇后の息がかかった女性たちだ。
彼女ら五人のことを、天翔はまったく信頼していない。
安那は母親の権力を笠に着た居丈高な女性で、天翔よりも5歳年上だ。
近親すぎる嫌悪感もあって、入内当初から夫婦の関係はない。
彼女が連れてきた、しもべのごとき他の妃たちのことも到底愛せる気がしなかった。
だから天翔は、今後皇帝権力を取り戻すためには、味方となるべく優秀な人材を発掘し、一から育てなくてはならないのだった。
(いつまでもヘタレでいるわけにはいかない)
優しい声で歌ってくれた水蘭を想うと、なんでも頑張れそうな気がした。
幸い、計画は順調だった。
若者たちと交流を深めると、彼らは仲間を誘い、己の師匠を誘い、またその同僚を、といったふうに人数がどんどん増えていった。
貴族ばかりを重用したがる姉とは違い、天翔は身分を問わず様々な立場の意見に耳を傾けた。
これまでないがしろにされがちだった優秀層の者たちは、長公主が実権を握る今の政府を快く思っておらず、味方に引き込むのは容易かった。
ただし、焦って事を起こす気はない。
(きちんと情勢を見て動かねばならない)