若い燕
【第26話】
水蘭はごくりと唾をのみこんだ。
『ありがたき幸せ』と言って平伏するべきだ。
なのに、即答できない自分がいた。
「どうした、娘よ」
「驚いてしまいまして……、言葉が出ずに、申し訳ございません」
「まあよい。近日中にその子の部屋を用意しよう」
「えっ、お部屋ですか」
「ああ。わらわの馭者にするのだ。わらわの部屋に近い一人部屋を与えてやろう。喜べ」
思わぬ事態に目を白黒させる。
(馭者って、そんなに偉い立場なの?)
馬車を操縦する人のはずだが。
主人の部屋の近くに一人部屋だなんて、ただ事ではない。
しかし、その疑問をぶつける前に、長公主は立ち上がった。
次の予定があるらしく、別れの言葉もなく、去っていく。
「お前も部屋へ帰ってよい。弟の件は、沙汰を待つように」
偉そうな侍女に言われて、水蘭は目眩を覚えながら辞去した。
(長公主様の馭者……、一人部屋……)
莉空の手をつなぎ廊下をふらふらと歩いていると、向こうから友人の春春がやってくる。
「水蘭、手が空いてたら手伝ってほしいんだけど――」
最近あまり仕事を任せてもらえなくなってから、空いた時間で彼女の手伝いをしていた。
だが、莉空のことで頭がいっぱいの今は、できそうになかった。
「ごめん、わたし……」
「やだ、どうしたのよ。顔色悪くない?」
気心の知れた相手に心が緩んだのか、力が抜けた。
ふにゃりと床に座り込んでしまう。
「ちょっと! しっかりしなよ。莉空、厨房行ってお水もらってきな。ああ、陳生はもういないから大丈夫だよ」
ひっそりとした廊下の片隅で二人きりになったところで、水蘭は春春に小声でなにがあったのか打ち明ける。
「実はね……」
話しながら、頭の中が整理されてきた。
莉空が長公主の馭者に取り立てられる。
素晴らしいことだ。
一人部屋をいただけるのも、とんでもない栄誉である。
屋敷に勤める使用人たちは今以上に莉空に一目置くだろう。
陳生のような下卑た輩や、菊花たちみたいな意地悪をしてくる者はいなくなる。
(いきなり部屋を用意するって言われてびっくりしたけど、莉空のためにはいいことよね……?)
自分の勝手な寂しさに惑わされてはいけない。
莉空のために最善の選択をしなければ。
そう思い返したところで――、
「それって、まずくない?」
眉をひそめた春春が、いっそう声を小さくして言った。
周囲を素早く見渡し、続ける。
「厨房係の同僚にもさ、長公主様直々のお声がかりで出世した人がいたんだよ。立派な一人部屋をいただいてね、みんな最初はすっごく羨ましがった。でも」
不穏な間があく。
水蘭は生唾をのみこんだ。
春春は芝居がかって声を低くする。
「実際は、夜な夜な閨の相手をさせられたって話」
「!」
「長公主様は若い燕をお好みだそうで」
「若いって……莉空はまだ12歳よ……」
「青田買いみたいなもんかもね。あの子、絶対に綺麗になるでしょ」
鈍器で頭を殴られたような衝撃がして、しばし放心する。
そんな水蘭を、春春は同情に満ちたまなざしで見つめた。
「助けてあげたいけど、相手が悪いよ。この屋敷で長公主様に逆らえる人はいないし」
青磁宮のもう一人の主人であるはずの長公主の夫、金環は、その父親が政府の重鎮で金持ちだったというだけのぼんくら息子であり、二人は仮面夫婦だ。
立場も性格も妻の長公主様の方が断然強かった。
(どうしよう)
とんでもない事態である。
ようやく陳生の件が解決したというのに、新たなる問題が発生してしまった。
「丁重にお断り……できたりしないかな?」
「難しいよね」
女主人の誘いは命令と同じだ。断るなど限りなく不可能に近い。
(仕事を辞めて、莉空を連れて逃げる?)
それが一番手っ取り早い解決法だ。
ただ、大した学もない水蘭ができる仕事は限られている。
当面の住居に加え、二人分の食い扶持を稼げる仕事は簡単に見つからないだろう。
仕事を求めて田舎から出てきたばかりの頃の苦労を思い出すと、なかなか踏み出せない。
「ねえ、訊いていいのかわかんなくて訊けなかったんだけどさ、あの方は頼れないの?」
「あの方って?」
春春は焦れた様子で顔を近づけてくる。
今までで一番小声で告げてきた。
「皇帝陛下のこと」
(天翔様……!)
朗らかな笑顔と、誠実な言葉が脳裏によみがえる。
――『今後もなにかあったら俺を頼ってほしい』
とたん、頬が熱を持ったのがわかった。
(そうだわ。天翔様にとって長公主様は姉。かわいい弟の願いを聞かない姉なんてきっといない)
解決の糸口が見えた。
視界がぱあっと明るくなる。
「かわいい顔しちゃって、まあ」
そんな水蘭を、春春はにやにやしながら眺めていた。