身代わり
【第21話】
聞き間違いかもしれない。
とは思うものの、水蘭は耳を澄ませる。
男の声は、風上から聞こえた。
(どうして知らない人が莉空を呼ぶの……?)
嫌な予感が胸を焦がす。
足音を忍ばせそちらへ向かった。
古い倉庫の傍らに、大柄な男の姿を見つけた。
寝ぐせがつきっぱなしのちぢれた短髪に赤ら顔、あごには無精ひげを生やし、煤にまみれた灰色の服を着ているが、胸もとはだらしなく開いている。
一見して、不快感を覚える姿だ。
見目麗しさだけで採用が決まるはずの青磁宮では珍しい存在である。
(知らない人だわ)
会ったことがあれば覚えているだろう風体だった。
「昨日はずいぶんとお騒がせだったもんなあ」
男は腰をかがめ、目線の低い位置にいるらしい誰かにすごむ。
その瞬間、水蘭ははっとした。
後先考えずに飛び出す。
男の影に隠れるような形で、莉空が地面にへたり込んでいたのだった……!
「莉空!」
二人は同時にこちらを向いた。
水蘭は手を伸ばし、男と莉空のあいだへ壁を作る。
「なんですかあなた。弟になにか用ですか?」
「水蘭っ、だめ!」
なぜか莉空が恐怖まじりの叫びを上げた。
「え、なに?」
「いいから、逃げて!」
「ちょっと、莉空?」
莉空は立ち上がり、非力ながら水蘭を向こうへ押しやろうとしてくる。
だが、伸びてきた男の太い腕に、水蘭の手首がぎゅっと摑まれた。
「きゃあ!」
汗で湿ったなまなましい皮膚の感触に怖気が走る。
せっかく拾った敷布が落ちて、また風にさらわれた。
「放してっ」
「ひひ……別にオレは水蘭でもいいって言ったよなあ」
「陳さん! お願いだから水蘭はやめて! 僕が……代わりに……」
(なんのこと? それに陳さん……?)
ふと、春春の言葉がよみがえる。
――『陳生があんたのこと気にしてるみたいだから、気をつけな』
「……っ!」
かまど番の陳生だ。
やたらと水蘭に詳しかったから、おかしいと春春から忠告されていた。
きっとしばらく前から目をつけられていたのだ。
水蘭ではなく、莉空が。
相手の意図を理解したとたん、凄まじい不快感が迸った。
(わたしでもいい!? 莉空が代わりに!?)
冗談じゃない。
莉空は絶対に渡さないし、自分だってこの男の言いなりになんか絶対にならない。
体格差から力ではかなわないのは明白だった。
だから、腹の底に力を込めて、甲高い叫びを上げた。
「助けて! 誰か来て!」
「静かにしろっ」
水蘭の大声に、陳生は激しい動揺を見せた。
摑んでいた手を離すや否や、水蘭を突き飛ばし、巨体を乗り上げてくる。
「ひ……」
恐怖で水蘭の喉は干上がってしまう。
その隙に彼は袖をくくっていたたすきを外し、猿轡を嚙ませてきた。
さらには水蘭の髪紐を奪い、後ろ手にきつく拘束してくる。
厨房担当だけあって、腹が立つほど器用だった。
「やめて、やめて!」
「うるさい! ひどい目に遭わすぞ」
泣いて取りすがる莉空を、陳生の険しい声が抑える。
莉空は恐怖に頬を引きつらせて黙ってしまった。
場当たり的に水蘭を拘束したものの、扱いに困ったらしく、陳生はしばらくその場を右往左往していた。
やがて、思いつきで背後の倉庫を開け、水蘭を中へ突き飛ばす。
あっと思ったときには、外側から開かないようにされていた。
「んーっ、んー!」
やみくもに肩で体当たりをすると、痛みで目から火花が飛んだ。
『行くぞ、莉空』
『……っ』
扉に隔てられた向こうで、陳生に促された莉空がどこかへ連れていかれてしまう。
(嫌だ! やめて! お願い!)
――この頃、莉空の様子がおかしかった。
いつもの遊び場にいなくて、妙な場所にいることが多かった。
泣いている日もあった。
昨日なんて、大人の背の高さよりもずっと高い木に登っていた。
きっと隠れていたのだ。陳生の魔の手から。
(どうしてもっと気にしてあげなかったの?)
莉空が隠しても、しつこく訊き出せばよかった。
菊花たちに頭を下げてでも、莉空を見ていてくれとお願いすればよかった。
春春から詳しく陳生のことを聞いておけばよかった。
今更後悔しても遅い。
(助けに行かなきゃ)
力いっぱい足を振り上げ、扉を蹴ってみる。
やはりびくともしない。
だが、大きな音を立て続けていれば、誰かが気づいてくれるはずだ。
そう思ったのに――。
外には雨が降り始めた。
物音はすべて水音に呑み込まれてしまう。
(助けて! お願いだから、誰か――!)
自分はどうなってもいいから、莉空だけはどうか助けてください。