恩人
【第20話】
草藪の向こう、等間隔に植えられた大きな欅の木の中に、茶色の麻の衣がひらひらしているのがみとめられた。
莉空の着物だ。
よく見れば、繁る葉の向こうで金の髪がちらちらと見え隠れしている。
「莉空! どうしてそんなところに」
水蘭は思わず天翔の手を振りほどき、木の下へ駆け寄る。
近寄ってみれば想像以上に高い木だった。
莉空の姿が豆粒のごとく小さく見えるのに、ぎょっとする。
「水蘭……」
莉空がか細い声を出し、下を覗き込んだ。
反動で枝葉が大きく揺れ、金の髪がゆらゆらと波打った。
「だめ! 動かないで」
(もし落ちたりしたら……)
この高さだ。
打ち所が悪ければ最悪の事態も予想できる。
想像するだけで水蘭の手足は冷たくなった。恐怖に身体がひきつれて、ブリキの人形になってしまったように重い。
「は……梯子、それと、布団を……」
助けに行くための道具と、万が一を考えて受け取めるものが必要だ。
わたわたとしていると、背後からぽんと肩を叩かれた。
「大丈夫だ。任せろ」
(え……?)
水蘭がまたたきしているあいだに、天翔は黒い袖をまくり上げた。
やにわに幹へ両手を回すと、木を登り出す。
「え! て、天翔様っ」
(皇帝陛下が、木登りを!)
それが、驚くばかりの俊敏さで、さらに狼狽する。
(嘘でしょう、こんな……)
彼はあっという間に莉空のもとへ到達した。
その身体を軽々と横抱きにし、片手で器用に降りてくる。
一瞬の出来事すぎて、なにが起こったのか水蘭は整理ができずにいた。
「怪我はないか? 高い所へ登りすぎて、降りられなくなっただけか?」
地面につくと、天翔は莉空を下ろしてその衣を払いながら問いかける。
「……」
莉空は見知らぬ男性に正面から見据えられて、小刻みに震えながらうなずいた。
「あまり姉さんを心配させるなよ。ほら」
背中を押されて、莉空がふらりとこちらへ来る。
思わず両手を広げ、水蘭は弟を抱きしめた。
「水蘭……」
莉空の声を聞いて、ようやく正気を取り戻す。
「莉空!」
(無事だった――)
安堵があふれ、喉の奥が苦しくなった。
同時に、自らの情けなさに背筋が震える。
(わたしはまた、なにもできなかった)
幼いあの日と同じだ。
もし天翔がいなければ、どうなっていたか。
また、莉空を失ったかもしれない――。
足もとが崩れていくような心地がして、まともに立っていられなくなった。
弟を抱き込んだまま、へなへなと地面にへたり込む。
「ありがとうございました……なんとお礼を申し上げたらよいか……。このご恩は決して忘れません」
「そなたは、いちいち大げさだな。まあ、力になれたのならよかった」
彼は歩み寄ってくると、両手を差し出してきた。
それぞれを水蘭と莉空の頭へ乗せ、慈しむようにふんわりと撫でてきた。
「……っ」
「また明日来る。弟も一緒に茶でも飲もう」
そうして、軽く手を上げ背を向ける。
決して急いでいるわけではないだろうに、歩幅が大きいせいかあっという間に後ろ姿は見えなくなった。
(……明日も? それに、莉空も一緒に?)
胸が妖しくざわめいた。
それは嫌な気分ではなく、むしろ……どこか陶酔めいていた。
翌日は、朝から黒雲が多い空だった。
(天翔様は本当にいらっしゃるのかしら)
あまり天気が崩れれば、来るのは難しいのではないか。
そう考えると、気落ちするような、寂しいような、妙な心地にさいなまれた。
昼を過ぎたころ風がひときわ冷たくなり、空が夕方のように暗くなる。
(降ってきそう)
同僚たちは雨の準備に追われてばたつき始めた。
水蘭は手分けして干してあった敷布を急いで取り込んでいく。
すると、焦っていた手もとから一枚するりと抜けた。
折からの風がそれを吹き上げ、どこかへ運んでいく。
「いけないっ」
渇いた洗濯物をまとめて廊下の隅へ置き、追いかける。
敷布はまるで水蘭をからかうようにひらりひらりと身をかわし、西の庭とつながる草藪のほうまで飛んでいった。
風が止むと、背の高い草を覆うように敷布は落ちて、静かになった。
(もう一度洗い直さなきゃいけないわ)
これから雨が降ると言うのに災難だ。
菊花たちは、ここぞとばかり文句を言ってくるのに違いない。
下手したら夕飯が抜きにされるかもしれない。
そうしたら、春春に頼んで莉空の分だけでもなんとかしてもらわなければ。
藪がついて汚れた敷布を払いながら、ため息をついたときだった。
「――莉空」
聞き覚えのない男性の声が、弟の名を呼ぶのを聞いた。