帰り道
【第18話】
頭がふわふわする。
身体は熱く、指先までじんじんと痺れている。
遥か彼方から、綺麗な音楽が聞こえてくる。
(なんだか、すごく気持ちがいい……)
母鳥の大きな羽根に守られた雛のような心地がする。
もう少しこのまま……。
舟に揺られるような感じがしたのを最後に、水蘭は意識を手放した――。
「……水蘭」
遠くから、誰かが名前を呼ぶ。
(莉空……?)
「水蘭」
(ううん、違う。莉空の声じゃない)
子供らしく甲高いものではない。
凜とした張りのある低音だ。大人の男性の声だ。
父でもない。
名を呼ばれると、背筋がむずがゆいような、気が急くような、妙な気分が湧いてくる、不思議な魅力あふれた声だ。
(そんな人、誰か身近にいたっけ……?)
「水蘭、起きろ。そろそろ日が暮れる」
(え!)
ぬるま湯に浸かっていたような感覚が、突如として引く。
ぱちりとまぶたを開いたとたん、賑やかな喧騒がぐわんと耳に響いた。
天井に吊られた赤い提灯が煌々と店内を照らし、そこかしこの卓子には香ばしい匂いの立ち昇る料理が運ばれて、人々は食事と歓談を楽しんでいる。
「よかった、起きたか」
すぐ頭上から声が落ちてきた。
びっくりして振り仰ぐと、間近に天翔の美麗な顔があった。
なんと水蘭は、彼の胸に寄りかかって眠りこけていたらしい。
「っ!」
大げさに身を引くと、あたたかな感触と無理やり引き裂かれて首回りや肩が冷えた。
(わたしったら、なんてことを……!)
初めての芝居で寝てしまった。
見逃したのは正直どうでもいい。
だが、代金を支払ってもらったくせに、眠ってしまうなんて失礼が過ぎる。まるでつまらなかったとばかりではないか。
その上、皇帝陛下ともあろう人物に、堂々と寄りかかってしまっただなんて。
(とんでもないわ。打ち首獄門にされる)
背筋に脂汗がにじんだ。
勢いよく卓子に額をこすりつけ、謝罪する。
「申し訳ございませんでした!」
「大袈裟だな。疲れていたのだろう。寒くはないか?」
「寒さなんて、全然。それに、決してつまらなかったわけではありません。素晴らしい演目でした。感激して気を失ってしまったんです」
「なんだそれは。気をつかわなくてもいい」
水蘭の嘘は完全に見透かされている。天翔が笑い飛ばしてくれたので、そこはほっとする。
「その……、天翔様。怖い場面は大丈夫だったんですか?」
「?」
おずおずと尋ねると、彼は不思議そうに眉をひそめた。
(あれ? わたしの勘違いだった?)
一人では見にくい演目だと言うから、てっきり怪談話が怖いという意味と受け取っていた。
水蘭が見た限り、恋愛が主題の演目だった気がするが、眠りこけているあいだにめちゃくちゃ怖い場面があったのかもしれないと考えたのだが――。
(お芝居は終わったんだし、蒸し返すこともないか)
あえて水蘭もそれ以上語るのをやめておいた。
「気持ちよさそうだったから、もう少し寝かせてやりたかったんだが、そろそろ刻限だ」
「え……あ」
店内の様子から外の時間はわからない。
しかし、客たちが夕食らしき料理を食べているのを見て、さっと青ざめた。
「莉空が」
「そうだな。弟が待っているんだろう? 送っていく」
行きとは違う馬車に二人で乗り、青磁宮へ戻る。
車窓から見える夕陽はどんどん儚くなっていく。
水蘭の心は焦れて、地団太を踏みたくなった。
(莉空……ごめんね。すぐに帰るから)
「天翔様、大変申し訳ございませんが、車の中のご挨拶で失礼します」
屋敷に着いたら、速攻で車を飛び降りて莉空のもとへ駆けつけたい。
天翔は心なし残念そうに眉を八の字に下げたが、無言でうなずいてくれた。
徐々に速度が緩まり、馬車が停まる。
と同時に、水蘭は飛び出した。
「今日はありがとうございました!」
大きさの合わない靴が何度も脱げそうになりながら、部屋へ駆け込む。
――莉空は、いない。
「なによ、その格好」
さっそく菊花が絡んできたが、今はそれどころじゃない。
「莉空はまだ帰っていませんか?」
「はあ? 知らないよ」
礼を言う暇も惜しんで、踵を返す。
夕陽は山の端でかすかにしか輝いていない。
子供が外で楽しく遊べるような時間ではない。
「莉空!」
西の庭にも、その姿は見えなかった。
突如として、水蘭の脳裏には過去の苦い記憶がよみがえる。
――まだ両親と共に田舎で暮らしていた頃、水蘭はやっとまともに歩けるようになった莉空の手を引いて、近くの川へ遊びにいった。
夕暮れ時の帰り道だ。ほんの一瞬目を離したすきに、莉空の姿は忽然と消えてしまったのだった。