芝居小屋
【第17話】
入口に立っていた店員に、天翔が勘定を渡す。
(先払い……?)
そんな食事処は初めてだ。
店内は、明かりが最小限に絞られており、大人の雰囲気で満ちていた。
一階部分は吹き抜けで、二階がコの字型に張り出し、ぐるりと席が取り囲んでいる。
(食べ物屋さんじゃないのかしら……?)
店の奥の方には、天井から緞帳がつられており、さらに向こうにも部屋がありそうだ。
二人は二階の真ん中で、緞帳に向き合うような形の卓子へ案内される。
使い込まれてすべすべした飴色の椅子に座ると、椀に入った白湯とつまみの炒った種が運ばれてきた。
店内はほどほどに混雑していた。
初めは空いていた席もだんだんと埋まってくる。
その度、室内の温度がむっと上がった。
「芝居小屋は初めてか?」
「芝居?」
「あの幕の向こうに舞台があるんだ」
「そうなんですね」
(やっぱりお食事処じゃなかったんだわ。へえ)
思わず立ち上がって、しげしげと緞帳を見つめてしまう。
ほのかに揺れる隙間から、奥の灯りが見える気がした。
中では着々と芝居の準備が進められているらしい。
「わたし、お芝居なんて見たことがありません」
「そうか。楽しめるといいな」
釉都の大通りではときどき大道芸などが催されており、歌ったり踊ったりする芸人を遠目に見たことはある。
しかし、こんなかしこまって席について鑑賞するなんて初めてだった。
「天翔様はよく来られるのですか?」
「芝居自体を観ることは多いが、ここへ来ることはほとんどないな」
考えてみれば、皇城内にこそ立派な劇場があるに違いない。
「お城で観るのと、街のでは、演目が違ったりするのですか?」
勝手な想像だが、貴族たちが見るのは貴人が主人公の高尚な学問めいた話で、下町で演じられるのはもっと雑多な庶民の暮らしを痛快に描いたものだったりするとか。
「特に変わらないんじゃないか。面白いものは面白い。人気の演目は城でだって街でだって、たとえ辺境の地でだって人気なものだ」
(やっぱり、意外)
天翔はこの国の頂点にいる皇帝でありながら、少しも偉ぶったところがない。
たいていの貴族は、庶民を同じ人間と思っていない節があるものだ。
けれども、彼は違う。
現に、水蘭なんかを連れて街を歩きたいというのだから。
(とんでもなく純粋でいい人なのか、変わり者なのかだわ)
特別な任務として皇帝のお相手をしなければならないという緊張感は、今やもうすっかり薄れていた。
「実はな、この芝居は前から気になっていたんだ。一人ではなかなか鑑賞しづらい演目だったから、そなたが一緒に来てくれてよかった」
(一人で観られない内容……? 怖いのかしら)
まだ少し季節が早いが、夏になると怪談話があちこちで盛り上がる。
(言われてみればこの店内、薄暗いし)
物陰からなにかが飛び出してきそうな気配も、無きにしも非ず。
水蘭とて怪談はそれほど得意ではい。
人並みに恐怖心はある。
だが、莉空が底なしの怖がりだったせいか、母親代わりとして強くあらねばと小さい頃から気を張っていた。
年頃の女子と比べると、少しくらいは度胸があるような気がする。
(天翔様はわたしより年上だけど、『弟』気質だもんね)
彼が怖がってびくびくしていたら、手くらい握ってあげてもいい。
それこそ、莉空にするように。
(怖がっている莉空はかわいそうだけど、ぷるぷる震えているのが可愛くてたまらないのよね)
やはりここでも水蘭の一番は莉空であり、すべてが弟に直結してしまうのだった。
やがて、店内の灯りが一斉にかき消された。
人々の歓声がわっと上がる。
けたたましい銅鑼の音が鳴り、幕が中央から左右へ引き開けられた。
煌々と照らされた舞台には、着飾った男女二人の役者が立っている。
銅鑼の音が鳴りやむと共に、涼やかな胡弓の音が奏でられた。
二人は顔を見合わせ、歌い出す。
「わ……」
思わずため息を漏らしてしまった。
幼い頃母が穏やかに歌うのを聞いて育ったが、役者たちの声量は、遠くに座す水蘭の脳を揺さぶるほど凄まじい。
(こんなに優しくゆったりとした曲なのに、すごい)
早くも拍手したくなる気分を逸らして、卓上に置かれた椀へ手を伸ばした。
口をつけると、とろりとした液体が舌に転がり込んでくる。
「んっ」
白湯ではない。これは酒だ。
暗がりの中、いつの間にか別の椀が運ばれてきていたのだった。
(お酒なんて飲んだことないのに……)
ほんのひと舐めしただけでも、口中が熱くなった。
首筋で脈がどくどくと弾ける。
舞台では、もの悲しい旋律が流れている。
周囲から交際を反対されて引き裂かれる男女が、涙を流しながら左右の袖へはけていった。
(ぱっと見て恋愛ものだけど、どこから怪談ぽくなるのかしら……)
ぼんやりと考えつつ、水蘭の視界はぐらついた。だんだんと意識がおぼつかなくなり――。