葱餅
【第16話】
水蘭は、店の外に立つ屋台を指し示した。
そこでは、香ばしい匂いの煙が立ち上っている。溶いた小麦粉に刻んだ葱を混ぜて平たくした葱餅を焼いていた。
いい香りにつられて人の輪ができている。
焼きたてに、甘辛い醤油だれをつけてその場でかぶりつく者が多い。
遠巻きに見ているだけで、よだれが出てきそうだ。
葱餅は広げた手のひらくらいの大きさだから、恋人同士や友人同士で二つに分け合って食べている者もいる。
あとからあとから客が引き寄せられてやってきて、大繁盛していた。
「わたしはあれがほしいです」
はっきりと告げる。
天翔はぽかんとしてそちらを見ていた。
(きっと、身分が見上げるほど高い皇帝陛下はあんな庶民の食べ物は口にしたことがないんでしょうね)
青磁宮の宴で出される料理も、手の込んだものが多い。
宴の翌日春春からよく残飯を分けてもらうから、どんなものが出されるのか、水蘭もよく知っていた。
葱餅のような油っこくて臭いの強い庶民の食べ物はそこにない。
そもそも、貴人は出来たての料理なんか食べないのだ。
何人かの毒見を経て食卓に並ぶ料理は、総じて冷めているという。
(まあ、葱餅は冷めてもおいしんだけどね)
水蘭にとっては高価な靴やら宝飾品よりずっと身近で、物欲を……いや、食欲を刺激されるものだった。
戸惑いから覚めない天翔を上目遣いにうかがい、重ねてお願いしてみる。
「あれを一つ買ってください」
「一つ、でいいのか?」
なぜか彼はごくりと喉を鳴らす。
「はい」
元気よく答えると、彼は急に声の調子を落としてもごもごと尋ねてくる。
「二人で……一つを分け合って食べる、という意味で合っているか?」
「!」
水蘭はちょっとびっくりした。
彼がそんなことを訊いてくるとは夢にも思っていなかった。
(莉空の分は買わなくていいのかって気にしてくれたんだ)
この人は、水蘭を喜ばせたいと言ってみたり、弟を気づかってくれたり――、ものすごく親切だ。
自分にとって最も大切な宝物を、同じく大切にしてくれた。
(すごく、嬉しい)
彼の水蘭の中での好感度は俄然上がる。
そのとたん、知らずに笑み崩れていた。
「はい! 一つで十分です。ありがとうございます。とても、嬉しいです」
「っ」
天翔が虚をつかれたように目を見開く。
その頬はじわじわと赤く染まっていった。
(二人で一つを分け合うなんて、素晴らしく清貧な暮らしだって、感激しているのかしら)
服やら靴やらをぽいぽい贈りたがる身の上からしたら、葱餅一つや二つの話は信じられないのかもしれない。
(でも、これが庶民の暮らしなんですよ、天翔様)
楽しくなってきた水蘭は、天翔と過ごす時間を純粋に満喫し始める。
金網の上に並ぶ葱餅の中で、一番大きくて見栄えがよさそうなのを指さし、天翔へ誇らしげに示す。
「これが一番おいしそうだと思うんです」
「ああ、それにしよう。これを一つくれ」
「まいどあり!」
彼が支払いを済ませると、店主が焼きたての葱餅を油紙に包んで渡してくれる。
ほこほこと湯気が立つそれは、素手で持つには熱すぎて、上襦の袖口ごとつかんだ。
水蘭は反対の手で、帯に挟んで携帯してきた布袋を素早く開き、そこへ葱餅をしまう。
「え?」
しかし、そこで天翔の拍子抜けした声が響いた。
水蘭は振り返り、唖然としている彼を見て首を傾げる。
「どうか?」
「え? いや、それ……食べないのか?」
「もちろんいただきます」
「どこで食べる?」
変なことを聞くものだ。
「ええと、部屋? 莉空が外で食べたいと言ったら、庭で食べてもいいですね」
「あ――、ああ、そういう意味だったのか。弟と、食べるのか。……理解した、ようやく」
急に額を抱えだした天翔を見て、水蘭は心配になる。
「どうしたんですか? 頭が痛むのですか?」
「問題ない。予想外の事態に動揺しただけだ……」
(突然どうしたのかしら)
さっきまでは葱餅の話で盛り上がっていたはずなのに。
ひょっとしたら、街歩きなんかして、疲れたのかもしれない。
彼は水蘭よりずっと年上だが、ふと莉空に対する気分と似た慈しみの感情が生まれる。
「どこかに座りましょうか」
「そうだな。では、あそこへ行こう」
天翔が指さした場所には、仰々しい門構えをした、宮殿を小さくしたような華やかな建物があった。
「食事処……?」
「食事もとれるし、ほかにもお楽しみがある。さあ、入ろう」