私的な買い物
【第15話】
「隣は……さすがに恐れ多いかと」
水蘭は恐縮して告げる。
だが、皇帝は首を横に振る。
「俺は今、皇帝としてここにいるのではない。だから、気にするな」
(そうか、お忍びだから、あんまりかしこまりすぎていても変に思われるってことね)
ならば仕方がない。
「わかりました、ええと……旦那様」
「っ!?」
陛下呼びをしてはいけないだろうと気をつかったのだが、彼は肩をはね上げてこちらを見る。
「旦那様だと?」
「申し訳ございません、なんとお呼びしていいかわからなくて。ご不快でしたか」
「いや……! 不快じゃない。むしろ……」
(むしろ?)
しかし、皇帝は横を向き、押し黙ってしまった。
耳が赤らんでいる気がするが……見間違いかもしれない。
(どうしよう。旦那様とか奥様とか、一般的な呼び方だと思ったんだけど、違うのかしら)
若様とかだろうか。
それとも、お館様?
無学な水蘭には、いい案が思いつかない。
見かねたのが、皇帝が助け舟を出してくる。
「天翔、だ」
「はい?」
「今日俺のことは、『天翔』と呼ぶように」
(偽名かしら)
皇帝の本名など知る由もない水蘭は、あっさりとそれを受け入れた。
「わかりました。天翔様」
「……っ」
再び彼はびくりと驚いた素振りを見せた。
(耳慣れしない偽名を呼ばれて、変な気分なのかしらね?)
なんとなく腑に落ちないものを感じつつ、隣を歩く。
「靴をお探しでしたね。靴を売っているお店は……」
街へ買い物など滅多にこないので、水蘭はこの辺りの地理に疎かった。
しかも、衣類の買い物などしたことがない。基本、買うのは食品のみだ。
せわしなく首を左右へやって、目当ての店を探す。
「こちらだ」
しかし、なぜか天翔は勝手知ったるとばかり、方向を定めてすたすたと歩いた。
「店がどこにあるかご存じなのですか?」
「ああ。それなりにこの辺は歩いているからな」
(よく来られる? 普段は目にしない庶民の暮らしを垣間見たいんじゃなかったの?)
頭が疑問符でいっぱいになる。
だが、聞くに聞けずにのみこんだ。
鮮やかな橙色の暖簾が下がる服飾品店に着いた。
店頭には、様々な色や形の靴が並ぶ。
その中で、天翔は嬉々として小さな靴を手に取り始めた。
明らかに彼の足には入らない。
色も装飾も可憐すぎるものばかりで、見るからに女性ものだ。
「もしや、どなたかへの贈り物でしょうか?」
なにげなく尋ねると、彼は目を丸くしてこちらを見る。
「まさか本気で言っているのか?」
「え……? 訊いてはいけませんでしたか?」
(皇帝陛下の私的な事情に首を突っ込むなんて、無礼千万だったかしら)
しかし、とたんに天翔は頭を抱えた。
「まじか」
呆けたような声を出し、棒立ちになってしまう。
「あの……申し訳ございません。わたし、余計なことを訊いてしまいました。どうかお忘れに……」
「そうじゃない。そなたに贈りたくて選んでいるんだろう。なぜわからない」
「ええ!?」
(わたしに、靴を贈る?)
それこそ意味がわからない。
「わたしは今日、長公主様から、陛下の私的なお買い物をお手伝いするようにと命じられております」
正直に告げると、天翔は大きく肩を落とす。
「間違ってはいないが、意味合いが全然違う」
「申し訳ございま……」
「謝るな。こちらが情けなくなる」
再度謝りたくなるのをぐっと堪え、押し黙る。
「先日も言ったが、俺はそなたになにか物を贈りたいと思った」
「……魔よけの玉をいただきました」
「だが、それほど喜びはしなかった。多分……俺はそなたを喜ばせたいのだと思う」
(わたしを……喜ばせる?)
誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
(なんだろう。胸が、そわそわして……変な感じ)
居心地が悪いような、反対に心地よいような、相反する未知の感情が広がった。
「だから、ひとまず靴を買うぞ。歩きにくそうにしているからな」
「あ……」
借り物の靴はぶかぶかで、歩き方がおかしかったのかもしれない。
水蘭を気づかう彼の申し出は、純粋に嬉しいと思った。
「靴はいりません。これは借り物なのです。部屋に戻れば大きさがぴったりのものがありますから」
「だが」
「ですが、天翔様のお言葉に甘えてもよろしければ、わたし、ほしいものがあります。あれです――」