お忍び
【第14話】
ぼんやりと胸にあたたかな光が灯った。
(水蘭……)
彼女を想うと、なぜか冷え切った心が、再び高鳴り始める。
あたたまってきた指先がじんじんと痺れた。
まだ、やれるのではないか。
数年ぶりに、胸に熱い想いがよみがえってくる。
(このままでは終わりにしない)
天翔はやおら立ち上がる。
青磁宮の姉に向け、懇願の文をしたためた。
◆ ◇ ◆
一方で――。
水蘭は、混乱していた。
「劉水蘭、正殿で長公主様がお呼びです」
またも正殿への呼び出しだ。
(まさか今日も皇帝陛下がいらっしゃるのかしら)
そんな馬鹿な。三日も連続で来るなんてありえない。
などと思いながら向かうと……。
今度は皇帝陛下ではなく、青磁宮の本物の女主人が待ち構えていた。
(この方が、長公主様……)
青磁宮で働き始めて5年になるが、彼女と面をつき合わせるのは初めてだった。
「ふうん、そなたが水蘭か」
作物の出来でも見極めるような不躾な眼差しを送ってきたかと思えば、真っ赤な唇をにやりと吊り上げる。
「実はな、そなたにわらわの弟の面倒を見てやってほしいのだ」
弟といえば、水蘭にとっては莉空だ。
目の中に入れても痛くない、かわいくてたまらない存在だが……。
長公主の弟とは、皇帝陛下のことだろうか。
親子ほど離れた年齢を考えると、ほかにもたくさんいそうではあるが。
「面倒……で、ございますか?」
「弟は城下町で買い物をしたいそうだ。付き添いを頼む」
そんなの無理です、などと断れる雰囲気ではない。
(どうしてわたしなんかの付き添いが必要なの?)
皇城は人材不足というわけでもあるまいし。
まったくもって訳がわからない。
(でも……うなずくしかない)
目を白黒させながら恐縮しきって頭を下げると、今度は綺羅をまとう侍女たちに取り押さえられた。
「え、なんですか?」
「準備を手伝います。大人しくなさっていてください」
そのまま広い浴室へ連れていかれ、無理やり服をはぎ取られた。
「あ、あの……! やめてください、わたし……」
「お静かに。長公主様のご命令ですよ」
そう言われてしまえば、一切の反論を封じられる。
多人数の手で身体の隅々まで洗われて、湯上りにはいい匂いのする香油を肌へ刷り込まれる。
あれよあれよという間に、華やかな山吹色の上襦と色合いのはっきりした濃紅色の下裙を着つけられた。
髪も大きく二つの輪っかに結い上げられ、豪華な金色の簪を三本も挿し込まれる。
(服も頭も重い……)
最後に、あたかも借りものだとわかるぶかぶかの紅色の靴を履かされて、よそ行きの馬車へ押し込まれた。
(なんだったの、いったい……)
困惑しきって目が回った。
仕事をしていると外出する隙などないので、久々に屋敷の外へ出た。
だが、車窓からの風景を楽しむどころではない。
馬車なんて田舎から引っ越してくるとき以来で、乗り慣れず、なんだか胃がむかむかした。
やがて、馬車が停まる。
外側から戸が開かれたと思ったら、そこに立っていたのは先日会った皇帝だった。
たしかに長公主から見れば「弟」だが、存在感が大きすぎる弟なのだった。
「陛下! このようなところで……」
「しー、忍びで来ているんだ」
見れば、質素な黒の長袍をまとい、前は頭につけていた金冠も布の帽子に代わっている。
身軽な庶民らしい姿だ。
美麗すぎる見目が目立って、やはり凡人には見えないけれど。
(ええと、面倒を見るようにとの命令だったけど、お忍びの買い物の補佐をすればいいのかしら)
庶民の目線で街歩きをしたいとか、そんな感じかもしれない。
(だからわたしに声をかけたの? ほかにも相応しい人はいそうなものだけど……)
腑に落ちないが、来てしまったものは仕方ない。
外回りの珍しい仕事と割り切って、きちんとこなそう。
「よく来てくれたな。その格好、似合っているぞ」
「え……? あ、ありがとうございます」
明らかに自分の趣味ではない格好を褒められて、複雑な気分になる。
だが、皇帝に悪意はなさそうだ。人のよさそうな笑顔を向けているから。
(不思議。身分の高い人って近寄りがたい雰囲気なのに、この人は違う)
皇帝のお忍びの付き添いなど肩が凝りそうな仕事だが、彼が相手ならなんとかこなせそうな気がしてきた。
「本日はどちらでお買い物をなさいますか?」
尋ねてみると、彼はまなじりを優しくして反対に問いかけてくる。
「そなたはどこへ行きたい?」
「…………え?」
「え?」
(なんで陛下までびっくりした目でわたしを見てくるの?)
私的な買い物の、庶民的な助言がほしかったのではないのか。
固まっていると、皇帝がぽんと手を打った。
「よし、靴を見にいこう」
「靴ですね。かしこまりました」
恭しく頭を下げ、一歩下がる。
たしか、歩くときは貴人の影を踏んではいけないのだった。
歩き出す皇帝の斜め後ろをついて行こうと控えていると、再び彼は驚いたような声を上げた。
「どうした? 足でも痛めたか?」
「は? いいえ」
「では、隣を歩け」