顧りみち
六時間目が終わった。先生が教室から出ていくと同時に、みんな小学生らしくがやがやしだした。
カッター版と画用紙の断片のぱらぱらをごみ袋に捨てて、指を組んで伸びをした。こどもは風の子というけど、今日のおれはそうなれなさそうだ。なんだか頭が重たくがっくりとするようで、中途半端に気分が悪い。憂鬱のエッセンスが多目に加えられてるような、嫌なタイプの疲れだった。
間もなくホームルームで、終われば帰れる。きょうは夕食は食べないで、早くベッドに入りたい。こういう日に限って、みんなの洗濯とかを頼まれたりするかもしれないが。
「すずあきー」
「…おーう」
気付けば真後ろに空が立っている。べつにおれの背中に目はついていないが、空の足音を立てずに背後や横を取るというライフワークに慣れた結果だ。こいつはおそらくこのクラスで一番通り魔に向いていると、毎日一度は考える。
「いっしょに帰ろ」
そう言うと、空はにこっと笑って首を少しかしげる。見えないけれども多分そうしているし、俺が見ようが見まいがどの道、その仕草で断りづらくさせる計略からは逃れられない。わかってるのだ。
「…いいぞー。珍しいな」
「ん。なんとなくね」
振り向くと、やつはもういない。自分の席に戻っていったらしい。
こういうやつだ。
吉原空。
この辺に住んでいて、その名前を知らない奴はあまりいない。この五年生まわりのクラスでは、天気の話題の次くらいにこいつの噂話が聞けるし、神無町の隅っこに住んでるとかでもなければ、二日に一回ぐらいは小耳に挟む、話題性の塊みたいな小学生だ。
まず、見た目からして色々と凄い。髪は真っ白だし、服に至っては本人曰く「おかあさんお手製!」らしい。上は黒い喪服の半袖着で、黒い短パンがツナギみたいに繋がったものを着ている。センスは極めて独特なのに、真っ白な肌と髪に完璧にマッチしている。その中性的で、その上…ええと、標準よりはるか上、…の、人形みたいに愛らしい容姿も相まって、このケレン味とスポーティーさ抜群のお洒落さを、いかんなく発揮しているのだ。
そんな外見の時点で強烈も強烈だが、本当に恐ろしいのは中身の方だ。順序立てて考えるだけでおれが混乱しそうになるので、箇条書きのようにいくつか例をあげてみる。
一。近くで電話が携帯でも固定でも不可能になる。富士の樹海じゃあるまいしとみんなが試してみたが、半径十メートルに入ったが最後、電波強度のアンテナ一本立ちゃしない。空の近くで謎の電話がかかってきた、なんて話も聞く。
ニ。的中率ほぼ百パーセントの一人こっくりさんができる。ジェネレーションギャップの例に漏れずおれは知らなかったが、あいうえおの五十音を書き起こした「ヴィジャ盤」なるものに十円玉を乗せ、それを人指し指で押さえると、「こっくりさん」が、どんな質問にも答えてくれる…らしい。だれが言い出して、どういういきさつで空がそれを実行したのかはわからない。ただ、一つ確実に言えることがある。
去年、とある女子が空にこっくりさんを頼み、恋愛の相談をしたという。その数日後、クラスで二股だの浮気だのという、齢十一にしてはすさまじい痴情のもつれ事件が勃発…なんてことがあった。そしてこっくりさんは先生が禁止にした。
三つ目。
それは今まさに、おれがやられているコレだ。
「すーずーあーきー…」
秋の校庭の寒空の下、空は頬を膨らませ、目を細めておれを見つめている。
この頃は日の落ちるのが早く、帰宅する頃には夕焼けの少し前あたりの時間になる。西日に照らされ伸びているおれの長い影は、空の足にグリグリと踏みつけられていた。それとなんの因果関係があるのかは分からないが、ともかくおれは今、手の指一本動かせない、金縛りに遭っている。
何か喋らなきゃと思っても、唇が少し蠢くばかりで、言葉を発することができない。
「なーんで何も言わないで出てっちゃうのさ。一緒に帰るって言ったのに」
「ちがうんだ。空。ホームルームが終わった途端、疲れがどっと出たのかぼうっとしちゃったんだ。置いていこうとしたじゃない。ほんとだよ。
って、思ってるでしょ?」
空はおれの真似をしてそう言い、口元を抑えてくすくす笑った。
空の奇行にも慣れてきたつもりだったが、流石に背筋がぞくりとした。
「まー、なんとなくわかるよ疲れてるのは。わかってるけど、でもぼく悲しいなー。それとこれとは別なんだよなー」
空は器用にリズムを刻んだ口笛を吹いて、両手を頭の後ろに組み、そっぽを向いた。そして足のグリグリを止め、ただ踏むだけにとどめた。体は動かないままだったが、口と指は動くようになった。
「わかった、悪かった。これからは毎日一緒に帰るから」
「えー、いいのー?」
空は目を輝かせた。「お前が言わせたんだろ!」と言ってやりたくなるのを我慢した。空は体を弾ませて影から足を離した。
「よし、照れ屋で薄情な鈴明を許してしんぜましょう!」
「た、助かった…」
空はおれの「助かった」に対し、何故か嬉しそうにけらけら笑う。
「おし、それでは早速かえろー!」
「ん。ところで…お前の家の方に帰るか?」
別におれが空への苦手意識を持っていて、一緒に帰るのを拒否していたというわけではない。家が正反対なのだ。それで一緒に帰りたいと言われたらそりゃ遠慮もする。ただでさえ物騒なのに。
「まーさーか。観覧車、心霊スポットの入場、給食のおかわり、何事も鈴明ファーストだよ!」
おれは弁当なんだけども、と突っ込もうかと思ったが、長くなりそうなのでやめた。
「おう…」
空はこれでもかとにっこりした。
空気が冷たい。いや、おれの体内が冷たいのか?影を踏まれたせいではなさそうだ。
「ま、ゆっくりいこーよ」
「ああ」
…空は案外、いや、こう見えてかなり空気が読める。いつもは読んだ本のこととか、家であった事なんかを、不思議なぐらい高いトークスキルで話してくれるものだが、今日はぽつりぽつり、いい意味で中身のない話をする程度で、あんまり深い話をしないでくれている。おかあさんがどうとか、あの木はあれに似てるとか、そんな感じだ。ありがたい。
…いやまあ、おれの今日のコンディション上、そもそも家路についてくるなという主張も有効だと思う。それでもついてくるとなると、単に調子が悪いおれを心配してくれているのだ。「顔が青いよ、きつくなったら言ってね」と、道を共にして最初に空は言った。そういえば、心なしか歩速も緩めにしてくれている。
「今日は帰ったら、熱いお風呂に入ってよく寝るんだよ」
「…ウン」
えらい、と空は笑う。
本来は、「まあ、こういう奴だ」という一言で済ませられるほど、空は単純なヒトではない。
家路が正反対なのに一緒に帰りたがり、「冗談」で怪奇現象を起こし、ところが趣味は読書と散歩。その名に通じているのかどうか、雲のようにふわふわした子ども。あらゆる面で年不相応で、どこまで素なのかわからない。
FSの教師をやってる母親も、空と仲良しでかつナゾな人物で、友達らしい友達は…
「鈴明?おーい」
「あ、ああ、悪い」
何か話していたらしい。今度は機嫌を崩したフリをしたりせず、心配そうにおれを見る。
「無理しないでね?」
「うん」
…まあ、俺との共通点もある。ほんの3ヶ月前までは、おれとは違う世界の住民だと思っていた。
というか、事実そうだった。おれから見ればそうだった。
「ところでさ、鈴明」
「なんだ」
「今日、カラスがいないね。全然」
「…いないな」
空は不思議なぐらいカラスを呼ぶ。普段なら、空と歩いていて上を見れば、電線に乗ったカラスがじろじろとこちらを見てくる。最初の内はかなり不気味だったが、空の無数の特異体質の中では可愛いほうだ。しかしそれがある日突然ないとなるとそれはそれで気味が悪い。
「なんか、やーな日」
「一般的なやーな日って、空にとってもそうなのか」
「ん。雨より曇り、それより晴れだよ。やっぱり」
「ふーん」
元気な俺ならもう少し茶化して言っていただろう。そういう修飾したトークは、今日のおれにはできそうもない。
ぽつぽつ話して歩くうち、デパートの前の通りまで来た。デパートといっても、何十年も前に潰れていて、ろくな補修もされておらず、曰くのついたような人々が出入りする場所だ。こうしたスラム然とした場所は、この町では珍しくない。数年前の大災害からはさらに拍車がかかって、人がよその町へ消えていくばかりだ。
「ここ、なんか出そうだよねー」
他人事のように空は言う。
「…空には見えてたり、するのか?」
元気ではない心の隙間から、不思議とそんな疑問が浮かんだ。
「むしろ見たいんだけどね。ぼくには見えなくて、皆には見えるパターンばっかり」
「先週の人魂騒動でも見えなかったのか?」
授業が中断されるほどの騒動だった。おれにも何個か見えたし、十個浮かんでたなんて言う奴もいた。
「皆ぼくの後ろを指差してワーワー言うのに、ぼくは見えなかったんだよね」
「そーか」
「うん」
少し会話に間が開く。おれのせいだが、普段ほど会話は弾まない。仕方がないのだが。
「…眩しいな、にしても」
「うん」
日没まで一時間も無いだろう。西日は強烈に目を焼いてくる。今頃隣町の釧路の橋に行けば、世界有数の夕日が見られるはずだ。
「……あれ」
目を焼かれたので視線を落とすと、さっきからうすうす感じていた違和感の根本が、ついに目に付いた。
…無い。
空の、影が、無い。
道路側にいるおれの影が伸びているばかりで、空の影は…
「…………空」
「なあに?鈴明」
「その、えっと、足元…」
「ふぇ?」
空は足元を見て「あー…」と声を漏らした。
「大丈夫、どっかに遊びに行ってるんだよ」
いつものことさ、と言った。信じられない。おれにはわからない。
「いや、そんな、まさか」
「…ほら、帰ってきた」
視界の外、おれたちが歩いてきた方からすーっと、影が滑ってきた。おれは飛び上がりそうになる。それは空の足元までスライドし、影としての役割を再開した。
「ね、ぼくは大丈夫」
「…ほんと、どういうことなんだ」
「ぼくが一番ききたいよ、もー」
空は唇を尖らせた。
「ほら、横断歩道だよ鈴明、ストップ!」
「……う、うん」
深く考えないことにした。
横断歩道を渡って右折。デパートの敷地に沿って曲がり、しばらくは直進だ。
「花屋さんがあるよね、この通り」
「ある、な」
「うん。ぼくとおかあさんの行きつけ」
「そうなのか?」
FSっ子であるおれには、花屋に行きつけというのがイメージできない。でも、そういえば花の話をたまに聞いてたっけ。植木鉢にそれぞれ、親子で花を育てていて。
「常連しか引けない、種のくじ引きがあってさ。ぼくとおかあさんで引いたの。そしたら何が育ったと思う?」
「……なんだろう?」
「ぼくがクロユリ。おかあさんはヒガンバナ」
「…それは、なんか凄いな」
割と心からそう思った。花に疎くても、不吉なラインナップなのはなんとなくわかる。しかも親子揃ってとは、なんだか、神の悪戯じみたものを感じる。
ぼんやり歩くうち、その店の前まで来ていた。
「…ほら、ここでーす」
デン!と空は口で効果音を付け、その店を指差した。個人経営の、花屋と聞いて浮かべるイメージの花屋だ。
「…わざわざ言うということは」
「ん。ちょっと覗こうよ」
「冷やかしはちょっとアレじゃないか」
「大丈夫、ぼく五百円持ってる。鈴明のを引こーよ」
「育てる場所なんてないだろ」
「ぼくんちで育てればいい。咲いたら見に来てよ」
「お前に払わすのは、ちょっと…」
「ぼくがお小遣いに困ってそうに見える?」
念の為注釈を入れるが、これは「ぼくの家は金持ちだから」ではなく、「ぼくは日頃お金を全然使わないから」の意だ。趣味が散歩だから無理もないだろう。
「いや、でも…」
「だめー?」
「…そこまで言うなら」
「やったー!では、こちらへこちらへ」
「ん」
自動ドアのセンサーが何故か空に反応しなかったので、おれから入ることになった。
左手にはカウンターで、何故か迷彩に塗装されたラジオカセットと、古びたブリキのバケツが放置されている。右手の壁中には、無秩序に鉢が第に載せられ、陳列されている。あまり強くない寒色の照明には、装飾か本物かわからないツルがびっちりと絡みつき、それは天井に広がって、蜘蛛の巣のような模様を描いている。総じて評すると、花屋というより魔女の家だった。
『いらっしゃい、空くん』
「どーも!」
ラジオカセットが喋り、おれは少しぎょっとした。
『おや、見慣れない顔だ。友達ですか?』
今度はヒヤッとしたが、カウンターの隅の天井に監視カメラが下がっていたのを見つけ、おれの緊張はしぼんで消えた。そして、なんだこの店、という呆れ気味の好奇心が膨らんだ。ラジオカセットの声はノイズが酷く、男とも女とも取れない。
「うん。鈴明っていう子」
『はは、ごめんなさいね驚かせて。びっくりして帰っちゃう一見さんが多くてねえ』
「でもこのスタイルがいいんだよね」
『そーそー』
あっはっは、と二人が笑う。置いて行かれたような気分だ。
『まあ、ということはガチャガチャですね!どうぞこちらへ』
「こちら、って?」
おれが言い終わらないうちに、カウンターから異音が鳴り出した。うおおん、うおおんと洗濯機の脱水みたいな音を立て、カウンターの側面の一部がカラクリ屋敷のように開き、ガチャガチャの機械が姿を現した。ラベルは特に貼っておらず、透明な窓が中のカプセルの山を晒していた。
「…すげえ店」
「でしょ!では、…鈴明が回すよね?」
空は五百円玉を差し出してきた。ちょっと悪いような気がしたが、「ここまで来て今更だ」と心の中で呟いて、すこし強気な動作で受け取り、機械の穴に挿し込んで、少し躊躇ってから、ツマミを回した。…なんでおれはガチャガチャを回すだけで緊張しているのか、他人事のように気になった。
がちゃ。
がちゃ。
やけに威厳ある音とともに、小さなカプセルが転げ出てきた。それは勢いよくカバーのない受け止め口から飛び出し、床に落ちて跳ねてしまう。
「あっ…」
「ほいっ、…大丈夫!ぼくが捕まえた」
空はいたずらっぽく笑って、カプセルを開けて中身を見せてきた。小さなプラスチックの、セロテープで蓋をされた袋の中に、ゴマみたいに小さい種子がいくつもあった。
「…なんだろこれ」
『私にもさっぱり!まあ光がキライな種ってだけですね、共通点は』
「…ふーん」
空は大事そうにそれを、衣服の中に仕舞った。この服には内ポケットがついているらしい。便利そうだ。
「じゃ、これはぼくが預かろう。任せてね。咲いたら見に来てよ」
「もちろん」
「…おし。じゃあ花屋さん、ぼくらはこれで」
空はぺこりと、カメラに向けて頭を下げた。
『またいらしてねー』
「ありがとな、空」
「え?」
「気分転換に連れてってくれたんだろ」
…白々しい奴だ。いつもそうだ。
「はーてなんのことだかぼくのわがままだよただの」
空は宙を見つめて流れるようにそうこぼした。句読点のないその言い方がなんだか面白かった。
「ちょっと元気出たよ。いい香りだった」
「そりゃよかった」
空は軽く口笛を吹いた。
「…もう日が半分沈んでるな」
「門限は?」
「真っ暗になる前に帰って来いと言われてる」
「ん。ギリギリだね」
「ああ」
時間が経つのが早い。日が落ちるのが早いのもあるのだろうが、それよりももっと大きな要因があると思う。その要因とはもちろん、この白髪小僧だ。
「空ってほんとに話題に事欠かないな」
「ぼくの一番の取り柄だよっ」
「言えてる」
影がどこかへ遊びに行ったり、謎の花屋を知ってたり、…意外と面倒見がよかったりする。知れば知るほどよくわからないやつだ。
「でもまあ、なんだろ。こう一緒に帰るようになるかもなんて、鈴明は考えたことあった?」
「ないな、しばらく前までは」
違う世界の、住人だった。
「ぼく、友達らしい友達はいなかったからさ、その。嬉しいよ本当に」
「そうか」
「…鈴明は将来何になりたい?」
照れたのか、急に話題を転換してきた。
「将来?考えたことない」
本当の事だった。いつもおれは目の前のことにあっぷあっぷで、将来なんて見てられるわけがなかった。
それより。
「そういう空は何になるんだ?」
目の前のこいつの事の方がずっと気になる。
「んー、スーパーヒーローかな」
「スーパーよりダークの方が合ってるぞ」
「確かに。皆を悪霊から守るダークヒーローだね」
「…で、実際どうなんだ?」
そうだなあ、と空は困ったように笑う。その次の発言は、全く、空っぽくて、でも、
空らしくなかった。
…ぼくはきっと生きてないと思う。
「…空?」
僕は呪われてるからね、長生きはできないよ。
「空」
みんな死ぬんだ。いつかはみんな死ぬんだけど、ぼくのまわりだともっと死ぬんだよ。
「おい…」
だってそうでしょ、鈴明もよく知ってるでしょ?ニュースでも流れたもんね。ユイが
ユイ、が
ぼくの目の前で
「空っ!」
両肩を引っ掴んで強く揺する。
空はとろんとした目をしていたが、何度も揺する内に徐々に目に光が戻って来た。
「あ、あ、………」
「空?」
「…ごめん、ぼくなんか言ってたかな?」
「いや、なんだか眠そうにしてた」
常套句だった。しばらく使ってなかったけれど。
「そっか、そうかそうか。よかった…」
うわ言のようにそう言うと、空は再び歩き始めた。しかし、どことなく頼りない、不安になる歩き方だ。ふらふらして、急に倒れそうだった。
「…ごめんね、もう、大丈夫だと思ってたんだけど」
内心、おれもそう思っていた。それも、外でこうなるなんて、ちっとも予想していなかった。
空の明るい性格は暗い出来事の裏返しだと、わかってはいたのに。
「…でも、そういうもんだろ。いやまあ、…よくは知らないけどさ」
「髪が真っ白になるだけならよかっ、たん、だけど」
空の喉が、そこだけ個の意思を持っているかのようにうごめいた。反射的に、おれは声を張った。
「空!…好きな食べ物は」
「ハンバーガー」
「帰ったらあるのは?」
「ハンバーガーだ!」
「そう。帰ったらあるんだろ、早く帰ろう」
「ん!」
空は強くそう言って、背筋を伸ばした。
しかし、嫌な空気は拭いきられなかった。
もう日が落ちてしまう。
別に落ちたっていい。おれは。帰ったところで、どうせ大人はみんな忙しい。少し遅かったってバレやしない。
でも、なぜか日が落ちてしまうことが、恐ろしく思えてならなかった。
──なんか、やーな日。
空の言葉が思い起こされた。
閑散とした灰色の通りには、人っ子一人もいない。風が、すごく寒い。
「…鈴明、調子は大丈夫?」
「おれは大丈夫…」
大丈夫じゃなかった。
おれは帰りのホームルームからずっと、空に心を支えてもらっていたのだ。それが急に無くなって、一気に不安感に覆われてしまったらしい。
「…鈴明、ぼくのおかあさんはね」
なんとか話題を作ろうとしているのか、空はゆっくりと喋る。
「変わってるんだ。噂は知ってるでしょ?十二段の跳び箱を軽々跳んだりとか」
「ああ」
半分も聞けてないかもしれない。
「…それで、さ」
カラスたちが、やかましく鳴いている。
目の前の地面のアスファルトに、大勢が集っている。
猫の死骸でもあるのだろうか、と思って、石を拾って投げてみる。
カラスたちは騒ぎながら散っていった。そいつらがいた辺りには、茎の長い植物が生えていた。花が咲いていたと思わしき部分が、残らずカラスに啄まれて、ただ緑色の菊が残されているばかりだった。
よく見ると、アスファルトの真ん中に咲いたその植物の近くに、同じようなのが生えていた。
そのまた近くに別なのが。
更にまた別なのが。
道路を通って、連綿と続いて、小さな廃墟のビルの入り口近くに続いている、それは壁面にまで至って上へ上へと続き、ビルの屋上まで登り。
いた。
ビルの屋上のフェンスの、こちら側。あちらから見て外側。
髪の長い女の子が立っていた。
おれは駆け出し、ビルの中へ飛び込んだ。
なぜだか構造を知っていた。玄関に入って左の部屋の奥に階段。駆け上る。全速力で上がる。後ろから誰かがついてきている気がする。構っていられない。
一心不乱に駆け上り、屋上へ。押し戸のドアに半ばぶつかるようにして、その場所へ行き着く。
いなかった。
もういなかった。
下に行ってしまったのだろうか?
追わないと。
すぐに追いつかないといけない。
フェンスに走り寄り手足をかける。金網の軋む音がする。
そんなに高くない、おれの背と同じくらいだ。
あとちょっとだ。
あとちょっとで──
──私と一緒に来てくれる?
聞き慣れない女性の声が、頭の中に反響する。
どうせ幻聴だ、空も一時期聞いてたし、それならおれでも聞くだろう。
しかし金網は高い、ものすごく高い。おれの体が縮んだのか?それとも誰かの意地悪で、フェンスがどんどん高くなっている?
いつまで登ればいいんだ。
耳鳴りがうるさい。
その耳鳴りは誰かの声だと、だんだん鮮明になるうち気付く。
誰だ、大声で騒ぐのは?
「鈴明」
あたりが真っ暗だとわかる。見慣れた顔がすぐそばにある。
空の顔だ。
「鈴明!」
後頭部が冷たい地べたに当たっている。つまり倒れているということだ。
ようやっと、我に帰る。
空はおれにマウントをとっていた、がっちりと抑えつけられて、全く身動きが取れない。お互いに息を切らして、汗でぐっしょりだ。
「お願い、やめて。死なないで。やめて。ごめん。ぼく、一人でやれるから。頑張るから。置いてかないで。嫌だ、嫌だよ。耐えられないよ」
「空」
「鈴明!」
「ええと…あの」
「…好きな食べ物、は?」
「…ホットケーキ」
戻ったのを確認すると同時に、「鈴明!」と空は叫んだ。おれの身体を起こして立ち膝にさせ、ぎゅううっと抱き締めてくる。
「ちょっ、おい、空…」
「よかった。よかった…」
空は声も身も震わせて、顔を俺の右肩に押し付けてきた。
温かい液体が、服の生地に染み込むのを感じた。
「鈴明。帰るよ」
空はしばらく泣いていたが、突然すっと嗚咽を止めて、ぱっと身体を離した。
「えっ?」
「帰らないの?」
「いや、まあ、帰るけど…」
上昇していた体温が下がって、頭も冷えてきた。
…いつもの夜にまして寒いと思ったら、ここはビルの屋上だ。寒いわけだ。風も強い。服がばたばたはためいている。
夢じゃなかったとわかると同時に、どうしようもなく力が抜けていくのを感じた。今更、腰が抜けてしまう。
「…空。おれ、その」
「いいの。気にしなくていい。もう大丈夫だから。二度とこんなことはないよ」
「…お前がそう言うなら、そうか」
「うん!保証する」
それでも、気になる。
おれは、何をしてたんだ?
寝て起きて、夢の内容を思い出せないようなあの感じが、さっきの記憶を包んでいた。
「…体調、いいでしょ?」
「へ?…あれっ?」
本当だ。物凄く疲れたし、頭は置いてきぼりもいいところだ。でも、なぜか…憑き物が落ちた感じがする。
「帰るよ。もう悪いのは逃げてった。一緒に帰ろ」
空は念を押してくる。
いつもこうだ。俺の知らないことを知ってるみたいに振る舞って、そのタネは一つも教えてくれないのだ。
でも、こいつは他の誰よりも、善意に満ちた人間だということだけは、最初からわかってた。きっと、空のやる事なす事は、本人にしか意味がないように見えて、本当は、何よりも大事な事なんだろう。
──いっしょに帰ろ。
教室の会話の記憶がよぎる。
──ん。なんとなくね。
「…空」
──顔が青いよ、きつかったら言ってね。
──ほら、横断歩道だよ鈴明、ストップ!
「なあに?」
もし。
今日、おれが一人で帰っていたら?
もしかしたら、このビルよりも、もっと前に…
「よく、わからないけど。ありがとう」
「…んっ!」
空は今日一の笑顔を見せた。
「おしっ、それでは良い子はまっすぐ帰ろー」
「はーい…」
どの面下げて言ってんだ、と言えば、「この面さ!」と元気に返すだろう。そういうやつだ。
「…ところでさ、鈴明」
「なんだ?」
「…ぼくら、どうやってここまで来たの?」
「え?」
おれの疑問に答えるように、空は笑ってドアを指差す。
ドアは頑丈そうな南京錠で守られていた。
おれ達の側から。
カラスがいつものように、頭上でかあかあ鳴いている。空は口笛を吹いて、楽しそうに歩いていた。いつもの歩幅で。
屋上からは難なく出られた。空はおれに目をつぶるように言って、鍵をかちゃかちゃと弄くり、難なく開けてみせたのだ。空曰く「戸締まりのかみさまに開け方を聞いて、開けた」らしい。追求するのはまたの機会にしておこう。今日は疲れた。
「ようし、やっとゴール…うわ」
少し前を歩いていた空が、なにやら残念そうな顔をした。宿舎の方を見てみると、おれも口から「うわ」が出た。
大時計が示す地獄は六時半。完全なるアウトだ。
「空ー…」
助けを乞う不憫な俺に、空は悲しく宣告する。
「ごめん。門限のかみさまと時間のかみさまはいないんだ」
「うぐう…」
ま、必要経費さハハハ!と空は言う。…込みに込み入った事情が、雨漏りのように今日染み出たのだから、確かに必要経費かもしれない。…わからんでもないが、納得は行かない。
「まあ玄関に誰かいるでしょ?一緒に行って、うまく言い訳しよ」
「…タスカルー」
空は苦笑いした。
思い足取りで門を通り歩く。
お互い何も言わない。おれは今日ここまであったことに思いを馳せていた。空もそうしているのかもしれない。
「……花、楽しみにしてる」
「ん。なんの花かなあ。花言葉も調べようね」
「…ちなみに、お前の花はどんなんなんだ?」
「ロマンチックなのと、おっかないのの二種類。『恋』と…」
「と?」
空は少しニヒルに笑う。街灯に照らされたその顔は、なんだか迫力がある。
「…『呪い』」
「マジかよ」
「マジだよ。僕らしくって気に入ってるけどねー」
「…ちなみに、その、お母さんのは?」
「似たような感じ」
事も無げに言う。
「親子、か」
「うん」
…おれにもいたら、吉原家ほどじゃないにせよ、空みたいに楽しいのだろうか。最初から持ってないものの事なんて、わからない。
俺はFSっ子で、家庭はないのだ。
…ま、人間は色々だよねぇ。
空は心を読んだかのように、そうこぼした。
「……鈴明」
真面目そうな声色だ。
「なんだ?」
「いっこ、お願いがあるんだ」
「おう」
空の頼み事は本当に珍しい。それも一日に二度なんて。明日は槍でも振りそうだ。
「…絶対に、後ろを振り向かないで」
「へ?」
空はこちらに視線を寄越さない。だが、その横顔は真剣そのものだ。
「約束してくれる?」
まったく、意味がわからない。でも今日からは、空を疑うことだけは、世界を疑うに等しいかもしれない事だと、学んだ。だから俺は、
「…ああ。信じるよ」
と返した。空は少し間を置いて、
「アリガトね」
と、鞠が転がるような声で言った。
おれはしっかりと前を見据えた。
しばらくは、何もない。正門から玄関まではまあまあの距離がある。二百メートルぐらいか。
急に風が吹き出した。喋るのをやめたせいで、そう感じたのかも知れない。
ぱきぱき、ぱきぱきと、細い木の枝を折るような音が、後ろの方から聞こえる。
だんだん、近づいてくる。
…もう今日だけで何度目か。今後はもう怖い目にあってもなんとも思わないと思っていたのに。空がいなければとっくの昔に振り向いてしまっていただろう。
空は、ぽつりと口を開いた。おれに何か言うのかと思ったが、違った。
「…もう駄目だよ。一回失敗したならそれまでなんでしょ?」
空に答えるように、木の枝を折る音が帰ってきた。ばきり、と格別大きな音が。
「…細菌やウイルスみたいなもんだよ。こころに免疫ができて、同じヤツはもう入り込めない」
さっきよりは小さな音が聞こえた。ぼきり、と。風がだんだん強くなる。強風の一歩手前になる。
「知らない。他を当たってよ」
空は、後ろの何かと会話をしているらしかった。
またもや木を折る音。ボリュームは変わらない。
「ぼくは特殊。生まれつきだよ。聞くだけ無駄」
走り出したくなるのを懸命に抑えた。木そのものが倒れるような音がしたからだ。
空気が重くて仕方がない。
「そんなことしてもなんともならないよ。世の中にはそういうことがある。その埋め合わせとして、ぼくみたいなのがいるのかもしれないし」
木枯らしが吹き付けてくる。無数の…新緑の木の葉が吹き付ける。今は秋のはずなのに。
「…いいよ。好きにすればいい。どこにでも行って、なんでもすればいいさ。でも」
空は語気を強めた。初めて聞く、低い声色だった。
「鈴明に二度と手を出すな。次にやったら最後、お前を縛ってるヤツもろとも消してやる」
……。
しばらく世界は沈黙した。風は徐々に弱まり、やがて消えた。木の折れる音ももう聞こえなかった。
「…ふぅ。もう振り向いていいよー。好きなだけ」
おれは振り向いた。そしてまた振り向いて、おまけにもう一度振り向いてやった。
何も無い。毎朝登校時に見る光景の夜バージョンが、三度目に映るだけだった。
「けっこう我慢してたんだね、はは…」
「そりゃ、な…」
「…ま、変なことがあったら、ぼくに言うんだよ。お化けがいるかは置いといても、理不尽は珍しくもなんともないんだから」
「…」
この言葉は胸に刻んでおこう。
「それに鈴明は、どうも怖いのに好かれやすいね」
「…冗談だよな?」
「残念ですが…ぼくにも好かれてるし」
「マジかよ…」
「マジだよっ」
空はげらげら笑う。そうしてしばらく笑ってから、急に真面目な顔になった。
「鈴明」
「なんだ?」
「もう一個、大事な事」
「どうぞ」
声のボリュームを一段階大きくして、空はゆっくりと、台本を読み上げるように言った。
「どうか、昔の事や、辛い事を顧みたりしないで。楽しくて、大事な事をじいっと見て生きていてね」
「…なんだよ、改まって」
「改まるさ!…ぼくもそうするから。約束してよ」
「わかった」
空は満足そうにしたのもつかの間、すぐに聞いてきた。
「じゃ、大事な物って何?」
「気がはえーよ。…でも、一個はあるよ。その、大事な事、は」
「…それは?」
「…さーな」
「えー」
空は不満を漏らしたが、おれは笑ってごまかして、玄関の煉瓦の階段に足を乗せた。
──数ヶ月前、突然、友達をみんな失った。
──友情なんてものは存在してなくて、クラスのみんなはおれを便利に使ぅていただけだという真実が、ある日突然、目の前に浮き彫りになった。
──死のうとして、真っ昼間に授業を抜け出し、外に出た。
その時に初めて。いや、実質初めて、出会った。
──ぼくもお供していいかな、鈴明くん。
頭の中であの日の声が再生される。
「どうしたの鈴明!?」
「え、」
「泣いてる」
「あ…」
んもー、鈴明ったら。
空はけらけら笑って、ハンカチを差し出してきた。
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