流血
蛇口から漏れ出す水は恐ろしくぬるかった。しかし、傷口を清潔に保つため流水での洗浄は絶対だった。手を包み込む流水は、傷口から流れ出た血で時折ピンク色に染まり、激しい痛みに脂汗を何度も拭った。波刃まで差し込まれた傷口はズタズタで血の止まる様子が一切見られなかった。手首を圧迫止血することで一時的に血を止める。俺は感覚がなくなるまで傷を水に晒し続けた。
水を止め、清潔なタオルを一本ダメにして直接圧迫をしながら針箱を取り出し縫い針を探す。救急キットをひっくり返し、やっと見つけた縫合針を噛んで台座から抜き、目を閉じて最初の一針を刺した。中学校の家庭科の授業をもっとまじめに聞いておけばよかった。縫い代はグチャクチャで血が止まったことが奇跡に思える。
アスピリンを二錠と抗生物質とリリカを飲んで布団に身を投げた。今日は厄日だ。刺し傷は病院に行けない。特に自分の様な刃物の刺し傷は警察に通報される。警察に月一回のペースで職務質問されている俺にはそれが苦痛でならなかった。彼らは俺の言う事を信用しない。何も悪いことをしていないのに指紋だって取られている。自分で刺したと言っても明らかに不自然すぎる傷口は、今もまだじくじくとに心臓のように痛みを発していた。
「何でこんな事するんですか」
俺は部屋の中に視線を投げた。するとこちらをじっと見つめる女性と目が合った。
少し言葉選びを誤ったかもしれない。もっと優しく話すべきであり、相手を刺激するような言葉使いは二手三手先の攻撃を誘発してしまうのではないか。
「血を飲みたかったからです」
「……」
血が好きな人もいるのかと思った。同時に速く逃げないといけないと思い、出口を見る。この部屋は玄関から今いる6畳まで畳一枚ほどの長さの廊下がある。その廊下には小さいながらもシンクがあり、中の包丁たてに3本ナイフがさしてある。それを取れればあるいはと思った。
多分この人は俺が逃げればついて来るだろう。それが捕食者としての宿命であり、人間は捕食者たる素質を備えている。特に二つの目が前を向いているのは肉食目の特徴であった。
チラリと彼女の眼を見る。彼女は一切瞬きをせず、潤いを保った目で俺を見ていた。しかしその様子は彼女の常軌を逸した行動と見た目の美しさも相まって不気味な人形のような雰囲気さえ醸し出していた。
手元にあった血濡れのタオルをギュッと握る。これを女の顔にぶつけて時間を稼げば台所までたどり着けるだろう。そこにはUSMCがある。それは元々戦闘用に開発されたナイフで、人を殺すことが専門、我が家ではその軽さを生かして調理用ナイフとして活用しているが、本来はアメリカ軍に納入されていたナイフがそこにあった。女が持つLMF2はあくまでもミリタリーユティリティー。戦闘にも向き不向きがあって、ハンマーにもなるLMF2はずんぐりした見た目に反しとても重い。故に刺す場合のスピードが落ちる。
ゴクリと生唾を飲む。
顔にタオルを投げ、足を床に立てたその一瞬。
ナイフに手を伸ばした俺の手は、すでに柔らかな手に包まれており、それ以上先に進めなかった。