佐竹君は如何にして人生初のバレンタインチョコレートを貰ったか。
佐竹智昭は普通の高校一年生である。
少しばかりチャリ好きで普通のシティサイクルではなく、お年玉預金とバイト代をブッコんで購入したクロスバイクを転がしている。
で、佐竹はサイクリング部の部員だった。
とても可愛い女子の先輩に勧誘されてホイホイ入ってしまった。入部届を出した後、件の先輩は彼氏持ちだと判明。人生のほろ苦さを学んだのは、別に良い思い出ではない。
そうして入部したサイクリング部は、ロングライドや市民レース参加するようなものではなく、ゆる~いポタリングが中心で、折り畳みチャリを転がして楽しむ部活だった。
別にポタリングが悪いわけではないが、スピード狂気味な佐竹はいまいち部に馴染めず、早々に幽霊部員と化しまった。残念。
そんなこんなで月日は流れ、二月半ばのバレンタインデー。彼女無し女友達無しの佐竹はイベント皆無のまま、放課後を迎えた。
……さっさと帰って母ちゃんからチョコ貰うか。
佐竹は教科書その他と空弁当を詰め込んだリュックを背負い、夕日の注ぐ駐輪場から青いルイガノを押していく。
カナダの自転車メーカー『ルイガノ』のクロスバイク。
フレームはアルミ製。フロントフォークはカーボン。2×10変速でタイヤは28C。チャリンコの癖にシマノのディスクブレーキである。それと、大変不本意ながらリアに社外品の荷台を加工して装着している。いろいろ荷物を持ち運ぶのに重宝するが……ダサい。
佐竹は校門で愛車に跨り、防寒暴風アノラックのジッパーを首元まで上げ、防寒手袋を付け、ニット帽を被って耳まで覆う(耳が寒いンだなぁ)。で、バイク用グラスを掛ける(風で目が痛くなるほど飛ばすンだなぁ)。
準備完了。
安物の腕時計で現在の時刻を確認。
自宅までのタイムアタック。電車3駅+バス4停留所分の距離だが、信号にさえ引っ掛からねば、さほど時間はかからない。ルイガノのクロスバイクは伊達じゃないぜ。
ただし、前日の降雪により一部の路面がアイスバーンと化している。シティサイクルやママチャリよりもタイヤが細いからメチャヤバだ。
でも飛ばすぜ……飛ばしちゃうぜ……凍てつく風を切り裂いて、俺は熱く駆け抜けちまうぜ……。
心の中で十代の少年らしくアホなモノローグを紡ぎつつ、佐竹はペダルを漕ぎ出した。
今日も夕闇迫る街で俺の孤独なレースが始まるぜ……レッツ・ライドッ!
十代の少年とは総じてアホである。
○
佐竹はティーンエイジ的アホであるが、チャリの扱いはまあまあ上手い。個人で県内の市民レースにも参加しており、表彰台は無理でも入賞したことがある。
頭の出来がもう少し勉強に向いていたら、志望校に入って自転車部でそれなりに活躍できたかもしれない。まあ、御覧の通り、アホだったためその未来は実現しなかった。哀しいね。
肌を裂くような冷風を掻き分けながら、佐竹はペダルを漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。
佐竹は迷うことなくギアを最高速重視にチェンジ。ペダルを漕ぎ続ける身体は、寒気が嘘のように汗を掻いていた。防風防寒アノラックを着込んだ上体は暑いくらいだ。
大腿筋に鞭打ち、下腿筋を働かせ、靱帯を暴れさせる。腹筋と背筋で体を支え、重心を扱い、腕でハンドルを握りしめる。バイク用グラス越しに路面を睨み、周囲の交通状況を注意深く観察。最善のルートを選別しつつ、人や自動車の動向を予測する。
公道上で自転車乗りは邪魔物だ。車やバイクには『鬱陶しいチャリ野郎』で、歩行者からは『あぶねえだろボケナス』。
そして、自動車やバイクと違って排気音を出さずに猛スピードで駆ける自転車は、充分な凶器だ。自転車による歩行者の死傷事故は珍しくない。また自転車側も駐停車中の自動車や歩行者と激突して死傷する事故が少なくない。
文字通り注意一秒怪我一生な乗り物なのだ。
ゆえに、佐竹は体以上に脳ミソを酷使。可能な限りの集中力を絞り出す。車道の端や歩道を原チャリ並みの速度で走っている以上、認識や判断のミスは許されないから。……その集中力を勉強に活かせば、志望校に入れたんじゃね? というツッコミをしてはいけない。
傍らを自動車が駆け抜けていく度、風に煽られて体が揺さぶられる。加えて残雪にハンドルが取られがち。脳ミソが命の喪失や肉体の損傷を想起させ、恐怖と怯懦が込みあがり、スリルという名の快感に転換される。
ある種の危険な競技を好む者達は総じてスリル中毒の気が強い。佐竹もその範疇だった。
転倒isデッド。俺のハートを試すデンジャラス・ロード。Cool&Hotにペダルを踏み込め。俺は公道のウォーリアー。ゴールまで全開だぜ。
繰り返すが、十代の少年はアホである。
赤々とした夕日と青黒い夜の帳が溶け合う紫色の薄暮時。自動車の一部がヘッドライトを点灯し始める。佐竹もハンドルに据えたLEDランプに火を入れた。
と、正面の歩行者信号が点滅を始めた。
これは間に合わないぜ。信号なんかに足止めされたら、俺の火が弱まっちまうぜ……
冗談じゃねえ……
佐竹はブレーキターンを決めて強引に方向転換。巻き上げられた茶色い残雪を浴びたタクシーの運ちゃんが叫ぶ。
「何しとんじゃ、このクソガキャアッ!」
「すんませーんっ!!」
Sorry. Old man……だけど、燃えちまってる俺は止まれないのさ。
佐竹はペダルを踏みこみ、脇道へ向かって突っ走る。決して怒った運ちゃんから逃げたわけじゃない。それに謝ったからセーフだ、と佐竹は心の中で誰かに言い訳した。
○
その集合団地脇の小路は一日中、建物の陰になっている。路肩には未だ大量の雪が残っており、路面もアイスバーンと化している。
夏場は涼しい小路なのだが、真冬では雪でも雨でも路面凍結しちまう嫌ぁな道だ。
しかも、性質の悪いことに小路は途中から坂道になっていて転倒の危険性が高い。実際、地元の人間ですら迂闊にブレーキを掛けて滑り、素っ転ぶ。運が悪いとそのままガードレールにコンニチハ。良くて擦り傷と打撲。悪けりゃ流血で骨がイく。
そんな危険な団地脇小路でも、佐竹は躊躇なくペダルを踏みこむ。深い前傾姿勢を取り、一層スピードを上げる。転倒するかもしれない恐怖と怪我をするかもしれない恐怖。想像力の作り出す不安な未来が、佐竹を興奮させる。
転倒ギリギリを攻めるスリルに、佐竹は勃起しそうなほど昂ぶる。タイヤから伝わる路面の氷を踏み越える感覚が快く、タイヤが滑りかける感触が脳汁をだばだば分泌させる。
ああああああ堪らねえぜっ!! 楽しすぎて狂っちまいそうだぜっ!!
視界の先にチャリを転がす女子高生。
ネイビーブルーのダッフルコートで制服は分からないが、濃紺の短いスカートは同じ高校かもしれない。明るい茶色に染めた長髪と白いマフラーが風に揺れていた。
スカートの下に学校指定の小豆色ジャージを履いている。大都市の女子高生なら意地でも生足を晒すだろうが、ここらの女子高生は伊達より実を取るのだ。はー……がっかりだよ。
Hey,ガール。道を開けてくれ。俺のライドが冷めちまわないように……。
佐竹がアホなモノローグを心のノートに書きなぐっていた矢先。
「あ」
茶髪のジャージ履き女子高生はアイスバーンの上でブレーキを掛け、見事に前後輪が氷上を滑る。そこで体幹を駆使してバランスを取れたなら、持ちこたえられたかもしれない。もしくはブレーキを解除してペダルを踏めば、運よくグリップが復活したかもしれない。
しかし、どちらの可能性も実現されず、女子高生は見事にすっ転んだ。
横倒しになるシティサイクル。カゴから宙へ飛ぶ通学鞄。投げ出される女子高生。ジャージを履いていなければパンツが見えたかもしれない。
自転車が倒れる特有の金属音が響き、シティサイクルがガードレールにダイビングキスするクラッシュ音が続く。茶髪の女子高生が冷たい路面へうつ伏せに転がった。
佐竹は仕方ない、と鼻息をついて注意深くスピードを落としていき、女子高生の傍に停車。スタンドを立てて愛車から降り立ち、倒れている女子高生の許へ歩み寄る。
「大丈夫か?」
女子高生は返事をせずおもむろに立ち上がり、
「いってーな、ちきしょうっ!!」
ガラの悪い怒声を上げた。
予期せぬ反応に佐竹が若干引く中、女子高生は白いマフラーや濃紺のダッフルコートが汚れたことに気付き、一層怒気を強めた。
「ああ、くっそっ! 泥だらけじゃんっ! クリーニングから帰って来たばっかなのにっ!!」
忌々しげに吐き捨て、女子高生はようやく佐竹へ顔を向けた。
女子高生の顔を目にし、佐竹は思わず眉を下げる。
……こいつは予期せぬ巡り合わせだぜ……
すっ転んだ女子高生は足立萌。
佐竹の苦手な同級生だった。
○
足立萌は見た目通りギャルとヤンキーの合いの子みたいな女子で、クラス内で独特な立ち位置を持っている。
一方の佐竹は平凡なチャリンコ好きに過ぎなかった。平々凡々のフツーな奴でクラス内カーストの中間と下層を行き来する奴だ。クラス替えや卒業をしたら真っ先に忘れられるタイプと言えよう。
そんな佐竹は足立萌に強く苦手意識を持っている。
バックストーリーは6月半ば頃の事。
クラスの男子谷口が盲腸で入院したのだが、担任がHRでその旨を教室で発表した際、足立萌は隣の席の女子に尋ねたのだ。
「谷口って誰?」
入学して二月半が経ち、まして谷口は特別授業で足立萌と同じ班だったにも関わらず。
谷口某が佐竹と同じような立ち位置の平凡な奴だったことも、佐竹に大きく効いた。
マジかよ。知り合い以前に同級生として認知すらされてねえとか。マジかよ。
この一件以来、足立萌(やクラスカースト上位連中)にとっては自分も認知する価値が無いと見做されているだろうな、と佐竹は考えてしまい、どうにも苦手意識を抱いてしまうのだ。
また、足立萌の容姿も佐竹の気後れを招いていた。
明るい茶色に染めた長髪。そばかすの散った顔にいつも不機嫌そうな三白眼。170弱の長身に男子好みの肉付き。制服の垢抜けた着こなしとさりげないメイク。お洒落なピアスやリング。
平々凡々な佐竹にしてみれば、足立萌は別惑星の住人ほどに縁遠い。
こうした理由から、佐竹は足立萌が苦手だった。
そんな足立萌が佐竹を一瞥し、
「ぼーっと突っ立ってないで、倒れてるチャリ起こしてよ」
言った。
「佐竹」
んんん? 佐竹は目をぱちくりさせた。あれ? 谷口は同級生とすら認識されてなかったけど、俺のことは認識してるんだ。
なんで?
足立萌の上から目線の物言いに気が回らないまま、佐竹がガードレールの傍らに倒れているシティサイクルの許へ向かう。
足立萌は白いマフラーやダッフルコートが汚れたことにぶつくさと文句をこぼしながら、すっ飛んでいった通学鞄の回収に向かう。スカートの下に穿いたジャージや手袋も汚れているのだが、そちらに対する言及はない。
通学鞄の汚れをテキトーに払い落としてから、足立萌は鞄を肩に担ぐ。手袋を外してダッフルコートのポッケに突っ込み、倒れた自転車を起こしている佐竹の許へ。
「あーもう。マジ最悪」
手櫛で乱れた髪を整えながら毒づく足立萌へ、佐竹は言った。
「これ、走れないぞ」
「はあ?」
足立萌の三白眼が細い眉と共に吊り上がる。
佐竹はギャルとヤンキーのハーフ&ハーフみたいな足立萌に若干ビビりつつ、足立萌の自転車を指さした。
「前輪がパンクしてるし、ホイールが歪んでる。これじゃ走れない」
「うっそ、まじで? 最悪」
足立萌は屈みこんで前輪を窺う。確かにタイヤが萎びたバナナみたいになっているし、ホイール部分も歪み、スポークも曲がってしまっていた。
「佐竹、チャリの扱いが得意なんでしょ? 直せない?」
無茶をおっしゃる。佐竹は眉を大きく下げた。パンクくらいなら直せる。リュックには簡単な修理キットもある(長距離を走る者の必需品だ)。しかし、ホイールやスポークまでイッちまったら流石に直せない。本職の出番。というか、交換すべきだ。
「流石にここまで重傷だと無理っス」
佐竹は素直に言いつつ、内心で『お前のチャリ寄越せ』とか言わねえだろうな、と警戒した。パリピやウェイ系の意地悪な連中がカースト下位連中をイビる様を見慣れている佐竹としては、足立萌に警戒を覚えてしまう。
当の足立萌は「マジ最悪」「あー。どうしよ」とぶつくさ言いながらスマートフォンを取り出し、自転車をパチリと撮影。それからマップを表示させて道を調べた後。三白眼を佐竹とルイガノに向けた。
「佐竹、駅まで乗せてくんない?」
「え? ……え?」
予想していた最悪の『お前のチャリを貸せ』よりもマシであるが、それでも予定外だった。
もちろん彼女どころか女友達すらいない佐竹に女子と二ケツしたことなどない(そもそも自転車の二人乗りは違反である……が、お巡りさん以外でそんなつまらないことを気にする奴は六法全書でマスを掻いてろ)。
呆気に取られる佐竹へ、足立萌は自身のチャリに鍵を掛け、ルイガノの許へ向かう。
「荷台があるし、乗れるっしょ」
佐竹は返事をしていないのだが、既に足立萌は合意を取り付けたが如くルイガノの脇に立ち、感嘆を漏らす。
「ギアがすっげーな。なにこれ、マウンテンバイクって奴?」
「いや、違う。クロスバイクだ」
思わず間違いを指摘する佐竹。
「クロス……? まあ、なんでもいーや。寒ぃーし、早くいこーよ」
足立萌はさして気にせず、ルイガノの荷台に跨る。
荷台のフレームがみしりと鳴いた。
「こっわっ!?」足立萌が苦笑いし「なにこれ、大丈夫?」
「作りがヤワいからあまりも“重い”ものは」
「は? 誰が重いって?」
三白眼を吊り上げ、足立萌が低い声で問い質す。佐竹の口から『ひえっ』と悲鳴がこぼれた。
「いーか、佐竹。あたしが重いんじゃない。この荷台の作りがちゃっちいんだ。そーだよな?」
佐竹には頷く以外の選択肢がなかった。
○
足立萌にとって、佐竹は箸にも棒にも掛からぬ男であった。
少なくとも夏までは。
それは夏場を迎えた体育の時。
男子が女子の容姿や胸についてあーだこーだと猥談をするように、女子も男子の容姿についてあーだこーだと猥談をする。ちなみに、男子より女子の方がエグい表現が多い。
パリピ系の女子が気付く。
「ねえ、あいつ。脛毛剃ってね? ツルッツルじゃん」
グラウンドでサッカーをしている男子達の中、佐竹を指さして言った。
「マジだ。何あれ、ウケる」「え、なんで剃ってんの? キモくね?」「アッコよりキレイに剃ってんじゃん」「うっせえわ」
ロードバイクを転がす男性は足や腕の毛を剃る。転倒時に体毛が小石や砂が巻き込み、怪我を悪化させるからだ。それに体毛を剃っておいた方が治療し易い。
女子達はそうしたことを知らず、脛毛を綺麗に剃っている佐竹を嗤っていたが、足立萌は違った。
なんというか、その脛毛が綺麗に剃られた佐竹の足が、しっかりと筋肉が着いた脹脛が、酷くフェティッシュに感じられた。
一言で言えば、そそられた。
その夜、スマホで『男。剃った足』と画像検索するほどに。
足立萌自身も与り知らぬ性癖であった。
以来、足立萌は体育の度に、次いで、学校生活の何気ない日常の中で、佐竹をちらちらと窺うようになった。特に足を。やがては佐竹本人を。
はっきり言って、佐竹智昭はイケメンではない。が、平凡な顔は見ていて嫌になることはない。平均的な中肉中背はチャリンコ競技に精を出しているせいか、意外と引き締まっている。これは評価ポイントである。脂ぎったデブは嫌だし、ひょろガリも嫌だ。
これは恋愛感情というほどのものではない。単に足立萌が佐竹に関心がある程度の話。
ただまあ、その関心が失われない限りは……目があるかも。
で。
最寄り駅を目指して佐竹がルイガノを走らせる。
既に日は沈んで空は夜色に染まっていた。冷えた寒気は鋭く、口元からこぼれる呼気が白く煙る。ヘッドライトや街灯、住宅の灯りを浴び、路面の氷がキラキラと輝く。
ルイガノの荷台に乗った足立萌は、自身の通学鞄と佐竹のリュックを背負っていた。当初こそ荷台のフレームを掴んでいたが、ペダルを漕ぐ佐竹がドギマギしていることを見抜くと――
ははーん。こいつ女慣れしてねーな?
ある種の女子はこういう嗅覚に優れている。鮫や狼にも勝るほどに。
足立萌は佐竹の腰に両手を回してしがみつき、体を密着させた。
「ふぁっ!?」
佐竹の口から奇怪な声が出た。足立萌は狙い通りの反応に笑う。
「こっちの方が楽だからさー。気にせず漕げ漕げ」
「おぉぉ、おう、うん、あ、そう」
初心な男子をキョドらせ、足立萌は女子的自尊心を満たす。
同時に、アノラック越しに佐竹の腹筋や背筋やらを感じ、『やっぱ、こいつ意外と鍛えてんな』と評価査定していた。女子は油断ならない。
すっ転んでチャリンコを壊し、着衣が汚れたことに機嫌を悪くしていたが、足立萌の気分は上々になり始めていた。
○
とんだイレギュラー……思いがけずのタフ・ライド……キレた走りが得意の俺も戸惑いを隠せ……やべ、厚着してるのに背中の感触が、あ、あああ、あ。
心のモノローグがブレブレの佐竹である。
とはいえ、普段より人一人分の重量が増した状態でのライディングは中々にタフで、後ろに女子を載せているトキメキは10分もすれば、苦労に変わる。ましてや機嫌が良くなったらしい足立萌が坂道でも荷台から降りず『がんばれがんばれ』と笑っている。
そこは降りてくれよ。と佐竹も思ったが、肩越しに楽しそうな足立萌を見てしまうと、
……か、かわいいかもしれない。が、頑張ろう。
女慣れしていない佐竹はチョロかった。
さて繰り返すが、先だっての降雪の影響で路面は未だ滑り易い。2人乗りで荷重が異なる今、佐竹は運転に神経を費やしていた。
そもそもロードバイクやクロスバイクは2人乗りすることを前提にしていない。デリケートなタイヤちゃんが『キツいんですけどっ!』と苦情を訴えている。
ここでパンクはティアドロップ。マジ勘弁だぜ……
状況に慣れてきたのか、足立萌の感触を楽しむ余裕が無くなってきたのか、アホな心のモノローグが復活し、佐竹は白息を盛大に吐きながらペダルを強く踏みこむ。
この先は緩く長いダウンヒル……フェイバリットなロードだが、ガールのウェイトがシビアだぜ……もしかしたら2人揃って夜空にハイサイド。
……冗談じゃねえ……
佐竹が速度を落として安全重視に切り替えようとした矢先。
「あ。もうこんな時間じゃん」
左手首に巻いた腕時計で時間をチェックし、足立萌が眉根を寄せた。
「ぱみちゃんの生配信に間に合わないし。佐竹、飛ばして飛ばしてっ!」
発破を掛けられた佐竹は思う。
ぱみちゃんて誰?
娯楽メディアがテレビ一強の時代が終わった今、少年少女のアイドルは芸能人に限らない。むしろコメントなどで交流できる動画配信者の方を好んでいる。佐竹にしても芸能人の名前は知らずともロードバイク系の配信者なら幾人も知っていた。
「いや、でも二人乗りでここは」
危ない、と佐竹が言葉を続けようとしたが、
「良いから行けっ! 佐竹っ! 飛ばせっ!」
足立萌が競走馬に鞭を入れるように佐竹の背中をべちべちと叩く。
「……分かった。しっかり掴まってろよ」
「そーこなくっちゃっ!」
弾んだ声を上げ、足立萌が佐竹にぎゅっと抱き着いた。厚着越しに男子好みの身体が密着した。が、レースモードに入った佐竹はキョドらない。
ロードバイク用グラスを右手中指で位置修正。カコンとギアを加速重視へ変更。佐竹はペダルを一気に踏み込んだ。
レッツ、ライドッ!!
○
速いっ! 怖いっ! お尻が痛いっ!
自転車がここまでスピードの出る乗り物だなんて、足立萌は知らなかった。ひょろひょろの細いタイヤと頼りないフレーム、段差を乗り越える度に軋み無く荷台が、恐怖感と不安を強く煽る。
緩やかとはいえ下り坂。佐竹のペダリングと合わせてルイガノはひたすら加速していく。
吹っ飛ぶように後方へ流れていく夜景。耳を襲う獰猛な風切り音。向かい風を浴びて髪とマフラーが荒々しく踊る。右へ左へ傾ぐ車体。まるでジェットコースターだ。
佐竹は残雪が溜まる車道の路肩をブレーキ一つ掛けずに突っ走る。傍らを走り抜けていく自動車との距離が近い。
氷の轍にタイヤが滑るも、佐竹が重心移動とペダル操作でギリギリのグリップを確保。足立萌は重心移動の邪魔にならぬよう佐竹にしがみつくことしかできない。
「さ、佐竹っ!? 佐竹君っ!? 大丈夫なの!? 大丈夫なのこれっ!?」
「多分」運転に集中力の全て注ぐ佐竹が投げやりに応じる。
「多分っ!?」
足立萌が悲鳴染みた声を上げた直後。
ずるりと車体が大きく滑る。2人分の体重が重力に掴まり、ルイガノが大きく傾く。
「ぃっ!?」
車道の端で転倒するかもしれない。足立萌の口から恐怖が漏れた。
瞬間。佐竹は地面を思いきり蹴りつけ、無理やり傾いだ車体を起き上がらせつつ、滑るタイヤを路面の小さな起伏に当てて強引にグリップをリカバリー。ペダルを踏みこんで運動エネルギーを車輪に伝える。
転倒の危機を脱し、足立萌が安堵の息を吐きかけたところへ、次なる災難。
側道から差し込むヘッドライト。ぬぅっと面を出すセダン。
佐竹はリアブレーキを強く握り込んでブレーキターン。横滑りしながらセダンの鼻先を抜けていく。
「ひぃえええっ!?」
慣れぬ横向きの荷重に足立萌が悲鳴を上げる。佐竹は運動エネルギーを殺し終えた瞬間、荷重を抜くようにブレーキを離し、ギアを軽くして重心を後ろへ引きながら目いっぱいペダルを踏みこむ。
車体後方へ二人分の重量が掛かり、前輪が一気に浮き上がった。
「ほぁっ!?」
荷台から振り落とされそうになった足立萌が目を剥く中、佐竹は前輪を浮かせたまま車体を90度旋回。即座に体重を前方へ移して前輪を着地。ペダルを踏みこんで運動エネルギーを再充填。車体を安定させる。
「今のはキレてたろう?」
肩越しに足立萌へ笑いかける佐竹は酷く男性的で、学校内では見たことも無いほど色っぽくて。
足立萌は佐竹に対する評価を大きく改めていた。
○
垂れ流される脳内麻薬に脳がふやけそうだ……だけどBe Cool……後ろにガールを乗せているんだ、集中力を失くしちまうのはnothing……
自画自賛したくなるようなキレた走りに、佐竹の心のモノローグもアホさ加減がマシマシだった。
ともかくこんな調子で最寄り駅に到着。
地方都市らしいパッとしない駅前ロータリーに進入し、駅前コンビニの傍で停車。足立萌が降りる。
足立萌は背負っていたリュックを佐竹に渡し、じゃれるように佐竹の肩をバンバン叩く。
「お尻がいってーわ。佐竹。次は2人乗り用のシート付けとけよー」
そんなものは無い。自転車は原則2人乗り禁止である。
「あ、ちょっと待ってて」
足立萌は一方的に告げてコンビニへ入っていった。
駅まで送って終わりじゃないんか?
佐竹は戸惑いつつ、ニット帽を脱ぎ、固まった髪をワシワシとほぐす。チャリをかっ飛ばしたため、蒸れて暑かった。
腕時計を一瞥。晩飯までに間に合うだろうか……
と、足立萌が戻ってきて佐竹へ板チョコを差し出す。
クランキー・チョコレートだった。
「今日バレンタインデーだろ? 送ってくれた御礼ってことで」
足立萌はちょっぴり気恥ずかしげに理由を言い、
「佐竹、今日はありがと」
柔らかく微笑んで、ぱたぱたと駅舎へ去っていった。
板チョコを手にしたまま、佐竹は固まっていた。苦手だったはずの足立萌の笑顔がえらく可憐だったことに衝撃を受けていた。
佐竹は駅舎と手元のチョコレートを二度見した。
ヤバい。こいつは、ヤバい。
母ちゃんや近所のおばちゃん以外の女性から貰った、人生初のバレンタイン・チョコレート(謝礼品)だった。
「ヤバい」
チョー嬉しいっ!!
この日から佐竹智昭はちょっぴり足立萌を意識するようになった。
足立萌の方は……さて。どうだろうか。
習作とモチベ回復のために書くも、肝心のバレンタインデーに間に合わず。本末転倒。
よろしければ、他の拙作も御笑読ください。
更新頻度が落ち気味の『転生令嬢ヴィルミーナの場合』。
エタり中の『彼は悪名高きロッフェロー』。