12
「とんかつ、美味しいよねえ」
お腹を鳴らした奥枝先輩がのんびりと言う。
そして、また平均律を弾き始める。
練習室に五番が響き始めて、私は慌てて「先輩」と呼びかける。
「とんかつ、美味しいので戻って全部食べましょう」
先輩のピアノは好きだけれど、二時間も付き合っていられない。食べかけのとんかつが干からびてしまう。
「でも、バッハ先生がもう少し弾いたらって言ってるんだよね」
先輩が手を止めて、恨めしそうな顔で私を見る。
「先輩、バッハ好きなんですか?」
「バッハ先生だけじゃなくて、ベートーヴェン先生もリスト先生も、いろいろみんなまとめて好きかな」
ぽーん、と白鍵を一つ鳴らして、奥枝先輩がにこりと笑う。
「先輩。バッハ先生とどこで話してるんですか?」
「ここかな」
奥枝先輩はそう言うと、胸を押さえて「頭の中で私のピアノを見ていてくれるの」と言った。
「押さえてるの、胸ですけど」
「心の中にもいるよ」
頭の中にバッハ先生がいるのはよくわからないけれど、心の中というのはなんとなくわかる。
「バッハ先生が先輩の中で喋ってるときって、どういう声で喋ってるんですか? イケボだったりします?」
「んー、そうだなあ。イケボっていうかバッハって声」
バッハって声、と言われてもわからないけれど、奥枝先輩にはバッハの声が確かに聞こえているらしい。
「バッハって先輩のピアノ、なんて言ってるんですか?」
「別になにも。いいよ、いいよー。もっと弾いてって感じ」
「……バッハ軽くないですか? 今のピアノはワシの演奏にそっくりじゃ、とかそういう感じのこと言わないんですか?」
「あ、倉橋さんのバッハってワシって感じなんだ」
「ワシ、ではないかもしれませんけど」
そこを突っ込まれるとは思っていなかった。
反応が予想外過ぎる。
「バッハ先生死んでるからね。もう細かいことわからないのかも」
さっきまでバッハに取り憑かれたかのようにピアノを弾いていて、今までバッハが生きているかのように話をしていた奥枝先輩が、唐突に現実的なことを言いだす。
「まあ、バッハ先生の時代の楽器ってオルガンとかチェンバロだったと思うからそっくりにはならないと思うよ。私は自分が弾いているピアノがバッハ先生のピアノだと思ってるし、それでいいんじゃないかな」
そう言うと、奥枝先輩が平均律の一小節を弾く。
「そんな感じでいいんですか?」
「いいの、いいの。私のバッハ先生、寛大だから。倉橋さんのピアノも好きだって言ってるし」
「え、私、先輩の前でピアノ弾いたことないじゃないですか」
「練習室から聞こえてくるもん。情熱的でいいと思うよ」
先輩が悪戯っぽく笑って、私を見る。
小柄でかわいい先輩はこういう笑顔がやたら似合う。その上、急に褒めてくるから、お世辞だとわかっていてもどうしていいかわからなくなって、にへらと変な笑顔を浮かべることになる。
「防音って言っても、結構音って聞こえてくるしね」
奥枝先輩に言われて、確かに、と思う。
練習棟の廊下を歩けば、いろいろなピアノが聞こえてくる。
田中さんのショパンだって漏れ聞こえてきた。
「先輩」
「なあに?」
「先輩なら、ショパンどういう風に弾きますか?」
「ショパンかー。もしかして実技試験の曲かな?」
「……そうです。10-8」
本当は、あのとき田中さんが弾いていたOp.10-1を弾いてほしいけれど、Op.10-1を弾いてほしい理由を聞かれたら答えることができない。
いや、Op.10-1は聴かなくていいものだ。
弾いてほしいなんて言ったら、田中さんに囚われているみたいで嫌だ。だから、弾いてもらうのはOp.10-8でいい。
「そうだなあ。私なら――」
先輩が、んー、と言って宙を見つめて、視線を鍵盤に落とす。そして、にこりと笑った。
「秘密かな」
「え、なんでですか」
「私のショパン先生と倉橋さんのショパン先生は違うからね。自分のショパン先生に聞いたほうがいいよ」
ふわふわとした声で言って、奥枝先輩が立ち上がる。
音楽は、楽譜通りに弾けば誰でも同じになるわけではない。
同じピアノ、同じ楽譜で弾いても同じ音楽にはならない。
田中さんが弾けば白く世界を塗り潰すような曲でも、私が弾けば違う色になる。そして、それは変化する。日によって、気持ちによって、同じように弾いてもどこか違う。
だから、田中さんが弾く世界を白く塗るようなピアノも、真っ白などこかに他の色が塗り込められていて、その色がでてくる日があるのかもしれない。
まあ、そんな奇跡みたいなことがあったら。
綺麗に、隙間なく、ひたすら塗る色が白以外になる日が、もしも本当に来ることがあったら、聴いてあげてもいい。
「誰でも聞こえるんですか、声って」
奥枝先輩に問いかける。
「耳を澄ませばね」
そう言うと奥枝先輩が、ふふふ、と笑った。




