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最期までの輝き



「やあ」

 病室の扉を開けて僕がぎこちない挨拶をすると、ベッドの上で妻が笑った。

「やあって、何。ウケる」

「毎日来てると挨拶のパターンが減ってくるんだよ」

「いやいや。挨拶にパターンとかいらないから」

 妻はなおも笑いながら、重だるそうに身体を起こした。昨日よりもちょっぴり辛そうだった。



「で、どうだい。調子は」

 荷物を置いて、僕は粗末な丸椅子に座る。妻の笑顔が、儚くて眩しい。

「もーう毎日来てくれてるでしょ? 見ての通りなんも変わんないよ。パラパラ漫画の1ページみたいな変化しかないよ、きっと」

「パラパラ漫画って言葉久しぶりに聞いた。あー懐かしい…………リンゴ食べる?」

「食べるっ」


 積極的な治療をしていたころはまだ食事制限があったが、ある日を境にそれはなくなり、好きなものを食べさせてあげてくださいと先生から言葉を賜った。医学的になすすべがなくなったとき、患者と家族はあらゆる制約から解放され、より一層気持ちを尊重されるようになる。



 家でむいてきたやつだ。気を利かせてウサギさんリンゴにしようと思ったのに、耳が片方だけぐにゃっと歪んでいた。それを気持ちよさそうに揶揄やゆする妻。

「へたくそーっ」

「うるさいなぁ。これでもだいぶマシになったんだからね?」

 しかし美味しそうに、むしゃむしゃと頬張っていた。終末期による食欲の低下で病院食はほとんど食べられなくなってきているそうだが、僕の差し入れは喜んで平らげてくれている。



「ごちそうさま。ありがとう」

 向けられた笑顔は、明らかにやつれてきている。痩せたな、という率直な感想なんて言えるはずなかった。



 食べ終わって、妻は病室の窓をぼんやりと見ていた。何を考えているのだろう。僕も釣られて一緒に眺めていた。しばらくして、妻がぽつりと呟いた。

「今日は降っていないんだね」

「そうだね」



 病室の窓からは、ぽつんと海に浮かぶ一つの島が見える。『宝石島』という、ときどき宝石が降ってくる奇妙な島。不要な人間を集めて強制的に宝石に変えてしまうという、恐ろしい島だ。


「昨日貴方が帰ったあと、夕方にちょっと降ってた。赤とか、黄色とか」

「そうなんだ」

「奇麗だったよ」

「へえ」

「私も奇麗だったころに戻りたいな」

 確かに妻は、夫という色眼鏡を外して見てもそこそこの美人だ。人より脚が長く、モデルのような体型をしている。体型に惹かれたわけじゃなかったが、良い嫁さん捕まえたなだの、お前には勿体ないだの、挙げ句の果にはまるで美女と野獣だな!とまで。結婚式で散々なブーイングを浴びたことを覚えている。



「今でも奇麗だよ」

 また笑われた。笑われたというか、哀れみの笑いというか。

「何それ。なんか昭和の口説き文句みたい……信じらんないね」

「本当だってば」

「こんなに黄色くなってきてるのに?」

「うん」


 急に妻は黙った。病衣の袖をまくって、自分の手首を見ていた。肝臓をやっているせいで、だいぶ皮膚が黄色くなってきている。最初は大部屋にいたのだが、いつ何があってもおかしくないという理由から個室に移されたことは記憶に新しい。僕は宗教家でも何でもないが、まだ若い20代の妻を“いつ何があってもおかしくない”状況に陥れた神に対して、酷く恨み憎んでいる。



 再び妻は窓を見やった。綺麗な夕焼けと海だ。

「ずっと窓から宝石の雨を見ているとさ、私もああやって奇麗になりたいなって思うんだよね。死ぬ前に宝石になれないかな? って…………」

 仕事終わりに来たものだから、もうすぐ日が暮れる。窓からのぞめる島も、これから降るかもしれない宝石の雨も、暗闇とカーテンに隠れて見えなくなることだろう。


 そして窓ばかりを見て僕から顔を背けたまま、淡々と妻は言った。

「ねえ、私を島に連れていって。宝石に変えて。それが私の形見でいいからさ」

 僕は反射的に椅子から立ち上がっていた。

「何馬鹿なこと言ってるんだよ。できるわけないだろそんなこと」


 不意に向けられた顔が濡れていた。妻は肩を震わせて、泣いていた。段々と肩の震えが大きくなり、嗚咽が混じっていた。

「嫌なの…………! 段々と汚くなっていく姿を貴方の前に晒すのが」

「いや何言って」

「病気が進めばいつかは意識もなくなる。話せなくなっていく。肌もますます黄色くなる。自分でトイレにも行けなくなって、きっとベッドの上でいろんなものを垂れ流す。…………もう終わりが近いんだって私は! 貴方の前では最期まで奇麗でいたいの! いたいのに…………」



 ひと呼吸置いてから、妻は最大限の怒りをぶつけてきた。

「そういう女心どうして分かってくれないの⁉ 宝石にしてよ! お願いだから! ねえ! もう仕方ないんだから! ……もうどうにも……ならないんだからさ……ねえ……」


 やり場のない、怒り。そのエネルギーの分だけで、妻も僕もまだまだ生きていけると思った。いつの間にか、僕の目にも涙がうつっていた。


 気づけば泣いたまま妻に飛びついていた。固く抱きしめながら、涙まみれの濁った声で、耳元にありのままを訴え続けていた。

「いいよ汚くても。僕はそうは思ってないんだけどね、君だけ勝手にそう思っていればいいよ。どうなっても僕は最期まで一緒にいたいんだよ。このままね。このままがいいんだよ…………」


 妻の大声がナースステーションまで聞こえたのか、一度看護師がドアをノックしにきていた。しかしいつまでも抱きしめ合う僕たちを見て気を遣ってくれたのか、あえて何も言わず立ち去ってくれた。




 夕陽と暗闇の中間。カーテンを閉める前の窓に、遠くで宝石の雨がちらちらと輝いていた。あれは何ともおぞましく冷たい、無機質な死人たちの光だ。だが腕の中の妻は温かく、紛れもなく生きている。命の輝きが尽きるまで、どうかずっとこうやって感情を共にしていたい。形ある輝きより、形はなくてもこの方がずっといい。それが愛だと僕は思う。


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