【番外編】シュバルツ辺境伯
エルメニア王国とトレア大公国の国境付近には良質な鉄が取れる鉄鉱山がある。両国は常にこの鉱山を巡って争ってきた。
身重の妻と弟、側近が見守る中、戦場で酷い傷を負ったフェルム辺境伯は死出の旅路についた。
一年前に鉄鉱山を巡って始まったトレア大公国との戦争で、エルメニア王国は劣勢にたたされ、最後の砦までトレア軍は迫っていた。劣勢を挽回すべく、フェルム辺境伯自身が前線に出たことで軍の士気が上がり、押し返し始めたところだったのに。
既にフェルム辺境伯が酷い傷を負ったことは兵士に知れわたっており、動揺している。その上、死んだことを知られれば、エルメニア軍は総崩れになりかねない。すくさま、次の辺境伯をたてて、指揮を引き継がなくては!
辺境伯にはまだ嫡男がいない。その辺境伯が亡くなった今、後を継ぐのは彼の弟のグレンしかいない。幸い、彼もこの砦に来ている。
「グレン殿、すぐに指揮をお取りください!」
辺境伯夫人、いや、未亡人は義弟を促す。
真っ青な顔をした義弟から出た言葉は「兄上の後継ぎは義姉上のお腹におられる。私はサンタナ伯爵家に養子に行く身。兄上の子を差し置くような真似はできない」だった。
未亡人となったアイリーンの顔に困惑が浮かぶ。何を言っているのだ、この男は。生まれてもない子が後継ぎなどと。男か女かもわからないのに。
「グレン殿?」
「このフェルム辺境伯は女性がなった例もある。どちらでも構いませんよ。では、私はこれで。」
そう言って、一目散に砦から出て行った。身重のアイリーンや兵士を見捨てて、自分だけ逃げたのである。
皆、呆気にとられた。他家に婿養子に行くと言っても、この場には辺境伯の後を継げる者は彼しかいない。生まれてもない子に後継ぎが務まるわけがない。たとえ、生まれていてもまだ赤子だ。
しかし、アイリーンには最愛の夫が死んだことを悲しむ時間も、頼るべき義弟が自分達母子や兵士を見捨てて逃げたことを嘆く時間もなかった。すぐさま、夫の剣を持ち、砦の城壁の上に立ち、あらん限りの声を張り上げる。
「辺境伯は身罷られた。しかし、その魂はお前達と共にある。私は女の身であるが、亡き辺境伯の意思を継ぎ、この場にいる。」
兵士は城壁の上を見る。そこには身重の辺境伯夫人の姿があった。
兵士達は動揺した。
辺境伯は負傷した。あの傷では遠からず死ぬだろう。最後の砦が落とされるのも時間の問題。負け戦がわかっているのに、命をかけて戦う必要がどこにある?なのに、安全な場所にいるべき身重の夫人は辺境伯の意思を継ぎ、この場にいるという。自分達は何を考えていたんだろう。何をしようとしていたんだろう。この場から逃げ出せば、命は助かるだろう。けれど、その後は?残された家族は?身重の夫人を捨てて逃げ出した、腰抜け、卑怯者と後ろ指を指され、蔑まれて生きていくのか?
この戦は負ける。砦が落とされるのも、時間の問題だ。けれど、もし、自分達が逃げ出さなければ?神に見放されていなければ?
兵士達は奮起し、なんとか最後の砦を守った。
側近達はアイリーンに安全な後方の城に下がるように言ったが、アイリーンはそうしなかった。前線の陣幕で指揮を取り続けたのである。
戦費が足らなければ実家に援助を求め、自ら頭を下げて、商人から借りた。身重のアイリーンがそこまでするのである。兵士達の士気が上がらない訳はない。エルメニア軍は徐々にトレア軍を押し返し始めた。
ある日の明け方、アイリーンは陣幕で女の子を産んだ。エルメニア軍がトレア軍を国境まで押し返した日だった。その子はヴィクトリアと名付けられた。
ヴィクトリアが生まれてから二年。一進一退の攻防が続いたが、なんとかエルメニア王国が勝利し、講和条約が結ばれた。
戦争が終結しても、アイリーンには休む間はなかった。幼い女辺境伯の後見人として、戦争で荒れた領地の立て直しをしなくてはならない。トレアから賠償としてエルメニアが得た土地の一部を、国王から褒賞として与えられた。もともと、そんなに肥えた土地ではない。夏でも冷涼な気候である。作物は他領に輸出するどころか、自分達の分すら怪しいうえに、言葉も風習も違う敵国の支配していた地域も加わった。
「辺境伯」の名の通り、国境の領であり、軍事費が領地経営を圧迫する。今回のように戦争でもあれば、尚更だ。唯一、お金になりそうな絹を綺麗な黒に染めた布は、染料の採取や準備、染色に手間がかかり、技術の習得も容易ではない。すぐには金にならない。
莫大な借金の返済もあった。実家からの借金は待ってもらうとしても、商人に借りたものは、返済に関してあまり無茶な交渉もできない。今後、お金を貸してもらえなくなるかも知れないし、他領に悪い噂をばら撒かれも困る。それに、貸倒れになる危険性があったのに、貸してくれたのだ。その好意を、信頼を、裏切りたくない。
城にあった金になりそうな物は、逃げる時にグレンがほとんど持って行ってしまっていた。その中には、アイリーンの持参金の一部であった宝石類もあった。アイリーンは、婚約の時に辺境伯から贈られたブローチだけを手元に残して自分が実家から持ってきたものも含めて全て売り、借金の返済に当てた。自ら畑を耕した。白いパンではなく、黒いパンを食べた。夜は領主としての仕事をし、昼も夜も働いた。
襲われる危険を承知で、新しく加わった地域にも頻繁に足を運び、元からあった領地と同じように扱った。
染色の技術改良や染料の栽培もすすめた。アイリーンにはこの染色技術が莫大な富を産むとの確信があったのだ。黒という色は染めにくい。貴族は喪服にさえ見栄をはる。この生地を手に入れるために大金をだしたからだ。絹以外の素材の染色方法も研究させていた。また、黒一色でも華やかになるように、布地の織り方の研究も。
領のために奮起するアイリーンの姿に領民、かつての敵国の地域の人々までも復興へ一丸となった。
染色の方も画期的な技術改良はなかったが、以前に比べれば、かなり改良された。染料の材料の栽培も徐々に進んでいる。黒い布の売れ行きも順調で、麻の染色技術も、あと少しで完成しそうだ。商人への借金の返済も順調だ。このままいけば、あと、十年で商人へ返し終わるだろう。
ここまで、八年かかった。
物事は順調な時ほど、邪魔が入るものである。前辺境伯が亡くなった時に「婿養子に行くから」と辺境伯になることを拒んだグレンが「自分こそ正当な辺境伯である」と主張しだしたのである。
これには大半の貴族が呆れた。幼いヴィクトリアが、女辺境伯となっている理由を皆、知っていたからである。義務は果たさず、一度は放棄した権利を、領が立て直り軌道に乗り始めた途端、主張する。なんと厚かましく、恥知らずなことか!
グレンが今迄フェルム辺境伯の地位や領地に関心を持つどころか、煩わしく思っていたことは、サンタナ伯爵家にグレンを訪ねたことのある貴族が「また、あの女からの使者か。もう、私は家を出た身。関係ない。追い返せ!」と、迷惑そうに使用人に言ったのを聞いていたことからも明らかだ。
しかし、時のエルメニア国王は、グレンの「フェルム辺境伯はトレア大公国を抑える重要な役目がある。辺境伯が女では指揮が取れない。生まれてもない腹の子が後を継ぐなど聞いたことがない」という言い分を認めた。代替わりは王宮に届けを受理されており、今の国王のサインもあるのに。また、グレンがアイリーンの持参金を持ち逃げした件は「幼い当主の代理として支度金を用意する義務がある」として不問にしたのに。
グレンは国王の勅令状を持って、フェルム辺境伯の居城に乗り込んだ。その日は側近が城に誰一人いないことは確認済みである。
「すぐさま、城を明け渡してもらおう。ここにある物は全てフェルム辺境伯の物。アイリーン、お前の着ているドレスも辺境伯の金で作った物。全て置いて行ってもらおう。また、お前が売り払った物も弁償してもらう。まあ、今着ているドレスだけは許してやる。さっさと、出て行け!この、簒奪者!」
アイリーンとヴィクトリアはグレンの連れてきた兵によって、有無を言わさず、城の外へ引きずり出された。その時に、売らずに唯一残していた婚約の時に贈られたブローチも取り上げられてしまったのである。
相手は国王の勅令状を持っている。下手に騒ぎ立てれば、グレンは邪魔な自分達親子を謀反人として処刑するだろう。アイリーンは実家を目指すことにした。
途中、息子と遠乗りに出かけている側近の一人に出会った。側近は王都に行き、不当性を訴えるべきだと言った。しかし、不当性を訴え出るべき国王自身が勅令状を出しているのである。それに、国王の正妃はサンタナ伯爵夫人の姉、グレンの義姉だ。
「いいえ、私はノーザンフィールドに向かいます。あなたは家族のいるここに残って、あの男に仕えても、私は恨みません。今迄、仕えてくれて、ありがとう。」
側近は息子を家に帰し、アイリーンとヴィクトリアを自分の馬に乗せ、ノーザンフィールドを目指した。ぐずぐずしていると、グレンが追っ手を向かわせるかもしれない。
息子は急いで家族にそのことを知らせると、馬を走らせて他の側近に知らせた。知らせを受けた側近達は、家にある金貨、銀貨を全て持って、アイリーン達を追いかけたのである。領民も、近隣の領主もこっそり、アイリーン一行を助けた。
一月後、なんとかノーザンフィールド領にたどり着いたアイリーン達一行に、ノーザンフィールド公は驚いた。フェルム辺境伯の爵位が姪のヴィクトリアから取り上げられ、グレンに与えられたことは知っていた。多分、新しく辺境伯になったグレンは姉を実家に送り返すだろう。しかし、今迄領を立て直し、前辺境伯、自分の兄の子供も産んだアイリーンとその子を身一つで追い出すとは!
ノーザンフィールド公爵は護衛をしてくれた側近達を労い、提案を二つだした。一つめは、フェルム辺境伯領に帰るなら、アイリーン達に使った費用を利子をつけて返し、護衛の代金と、ここから辺境伯領までの旅費を出す。二つめは、もし、この地に留まるなら、家と仕事を用意するので、家族を呼び寄せたら良い。みな、後者を選んだ。
アイリーン達がノーザンフィールド領に来て半年後、金を貸した商人達が公爵を訪ねて来た。理由は「残りの借金をグレンが払ってくれず、アイリーンが借りた物なので、アイリーンに請求する様に言われて困っている」だった。
確かに借金をしたのはアイリーンであるが、フェルム辺境伯の代理人として借りたのだ。自分達が贅沢をするためではない。それを商人も知っていたから、貸倒の恐れがあるのに大金を貸し、返済をアイリーンではなく、今のフェルム辺境伯グレンに請求したのである。公爵は急いで王都に向かい、サンタナ伯爵となっているグレンに、実家に借りた分はともかく、商人にした借金は返すよう求めた。しかし、グレンは「金を借りたのはアイリーンだ。証書にもサインがある。私には返す義務はない。むしろ、城を出たときに着ていたドレスの代金や、暮らしていた時の生活費、辺境伯を僭称していた賠償金も払ってもらいたいぐらいですよ」と言い放った。
公爵は決心した。国王もこのことを承知しているのはわかっている。ならば、こちらの方法で対処するまで。
公爵は「迷惑をかけてすまない」と商人への借金を支払った。
それから、王都へ運ぶ農産物の量を減らした。他にも、海産物、畜産物、乳製品などなど。人々の口に入る物すべての量を減らしたのだ。王都の人々の食料は王都周辺の村々だけでは賄いきれないため、そのほとんどをいろいろな領からの供給に頼っている。ノーザンフィールド領からの供給は質、量ともに群を抜いていた。その領からの供給が減ったのである。王都では次第に食料が不足し、質が低下し、値上げされる。
当然、王宮からは量を元に戻すよう言ってくるが、「今年は天候が不順で作物の出来が良くない。自領の民の分も足りないくらいなのに、無理をして王都に運んでいるのです」と言われては、王宮も強くは言えなかった。実際、今年は天候不良によりどこの領も不作で、王都への供給量が減っていたし、自分達が理不尽なことをしていると言う負い目もあった。
しかし、ノーザンフィールド領からの供給が減ったのは「国王やサンタナ伯の仕打ちのせい」と言う噂が王都に広がっていった。それは仕方ないとも言える。実際、領から王都の屋敷に運び込まれる食料の量は減っていなかったし、むしろ、炊き出しを行う教会へ寄付する分だけ、増えていたからだ。
国王やサンタナ伯への商人の態度も変わり始めた。今迄、少しくらいの返済の遅延は何も言われなかったのに、1日でも遅れると、督促されるようになったのである。それだけでは無い。遅延があれば、商人は残りを一括で返すよう迫りだした。今迄のようにツケではなく、品物と引き換えに金貨で支払うよう求められた。
シュバルツ染めの貴重な布地の織り手、染めの職人が無断でフェルムの地を離れた。噂によるとノーザンフィールドに向かったと言う。
農民達も次々と逃げ出した。グレンが領主になってから、既存の税があげられ、新しい税もできた。領地に来た時は、目をつけた娘を行儀見習いと称して無理矢理城にあげ、散々オモチャにした挙句、捨てた。新しく領主となったグレンの圧政に耐えかねたのもあるが、以前、グレンがフェルムを逃げ出したのも大きい。一番苦しい時に自分達を見捨てて逃げておきながら、領が立て直った途端に、厚顔無恥にも帰って来る。しかも、建て直した前領主夫人とその子供を身一つで追い出して!
農民が逃げ出さないように、兵士に命じて街道に検問所を設けたが、真面目に働く者はいなかった。兵士はグレンが逃げ出したのも、前領主夫人が安全な後方の城ではなく、前線の陣幕で暮らし、指揮を取り続けていたのも間近に見ている。フェルムは常に、隣国トレア大公国との最前線にいた。こんな領主では、いつ、また、自分達を置いて逃げるかもしれない。そんな領主に命は預けられない!
そんなある日、事件が起こった。いつものように、グレンと側近が無理矢理娘を連れて行こうとした。それを止めさせようとした兄に、脅しのために抜いた剣があたり、殺してしまったのだ。
「これは無礼討ちだ。領主の意に逆らうなど。」
そう言って、城まで逃げ帰った。
それで終わるはずだった。グレンも側近も自分達は特別な人間であり、領内では何でも許されると思っていた。
しかし、農民達は近隣の村と連絡を取り合い、反乱を起こした。最初は小さな反乱だった。グレンも側近も「所詮農民、すぐに収まる」と思って甘く見ていた。反乱は収まらなかった。それは燎原の火のように瞬く間に広がり、あちこちで反乱の狼煙があかった。
グレンと側近は兵士に鎮圧する様に命令したが、誰一人言うことを聞かない。鎮圧に向かうどころか、反乱に加わるという有様だった。
近隣の領に助力を求めたが、近隣の領主も先のトレア大公国との戦争には少なからず、出兵している。当然、グレンが逃げ出したことも、領を立て直したアイリーンを追い出したことも知っている。あんな男に手を貸すのは嫌だし、実家のブルーローズ家に睨まれたくない。誰も、助けなかった。
グレンは何とか王都に帰り、国王に助けを求めた。アイリーンが、実家のブルーローズ家がシュバルツ染めの織り手や職人を引き抜き、反乱を指揮、援助している、これは謀叛だと訴えた。
国王は困った。ノーザンフィールド領とフェルム辺境伯領は国の端と端。引き抜きはまだしも、反乱の指揮、援助をしているというのは無理がある。それにグレンの爵位継承で国内貴族から反感も買い、王室から離れつつある。何より、王都の食料不足は国王とサンタナ伯のせいだと民衆は噂し、不穏な空気に包まれている。これ以上、グレンの肩を持つと最後の一滴になりかねない。
とにかく、国王は現状を把握するとして、フェルム辺境伯領にアイリーンともグレンとも繋がりのない副宰相をやった。
国王の使いとしてフェルム辺境伯領にやってきた副宰相はフェルム辺境伯領の領民の代表だという人物に面会を求められた。国王に嘆願書を渡して欲しいという。
「嘆願書?」
「はい、私達は謀叛を企んでいる訳ではありません。ただ、グレン様が領主なのが嫌なのです。前の領主様の奥様のアイリーン様やヴィクトリア様に戻して欲しいだけです。苦しい時に私達を見捨てず、本当に私達領民の事を考えてくださいます。」
副宰相は「国王の決定に異議を唱え、従わずに反乱を起こす」これを謀叛というのでは?と思う。さらに領民の代表は続ける。
「グレン様が領主になってから、税も上がり、新しい税もできました。無理矢理娘達を連れ去って、自殺し者もいます。今年は不作だというのに、王都に送る、と余計に麦を取られました。このままでは、冬を越せません。娘を売った者もいます。」
副宰相は「分かった」と嘆願書を受け取った。
翌日から副宰相は村々を回ってみた。全部の村を回れた訳ではない。しかし、どの村でも、アイリーン達のことを悪く言う者はいなかった。みな、領主をヴィクトリアとアイリーンに戻して欲しいと言う。
一週間、滞在して王都に帰った副宰相は、見聞きしたことを国王に報告し、預かった嘆願書を出した。そして「早く領主をヴィクトリアに戻した方がいい」と言った。
結局、国王は何もしなかった。妻からは姉の夫であり、実家の現当主であるグレンの言い分を認めて、反乱を鎮圧するために出兵するよう求められるが、先の戦争で未だ国庫は空に等しい。新たに借金しようにも、商人は貸してくれそうにない。自分の領地のことは自分で解決するよう言うしかなかった。
本格的な冬が来て、もともと豊かな土地ではなく、不作の上、翌年の種籾まで税として取られた農民は飢えた。道の草や飼っていた牛や馬、犬までも食べ尽くした。餓死者も出始めた。ますます農民は土地を捨て、近隣の領に流れる。フェルム領だけ不作で、近隣は豊作なんて事はありえない。次々と押し寄せる流民に、食べさせるだけの食糧も仕事もない。食べるものがなければ奪うだけだ。取り締まっても、取り締まっても、キリがない。近隣の領主は困り、国王に訴えた。流民をなんとかして欲しいと。
国王はグレンにフェルムの統治能力が無いのは分かっていた。なんならサンタナ伯領も。ただ、サンタナ伯領は昔からの家令が取り仕切っている。それで、上手くいっているだけだ。フェルム辺境伯領は平時でも統治が難しい。痩せた土地、冷涼な気候。鉄を産出するといっても、それを製錬するには手間も金もかかる。そして、何より、辺境伯領の名の通り、国境防衛の地。兵や軍備に金がかかる。戦争にでもなれば尚更だ。そんな土地をグレンのような男が治められるわけがない。
国王はグレンにヴィクトリアに辺境伯の爵位を返すよう言ったが、グレンは承知しなかった。
副宰相の報告書と嘆願書をみせられ、「爵位を返さないなら、流民にかかった費用や損害をすべて請求する」と近隣の領主に迫られた。自分がヴィクトリアの後見人になる事を条件にようやく承知した。ヴィクトリアが辺境伯になれば、アイリーンやブルーローズ家が手を貸すだろう。反乱の鎮圧や領の立て直しなど、面倒な事はヴィクトリアのいるブルーローズ家に任せて、自分は後見人として今迄通り領で好き放題すれば良いと考えたのである。
国王はこれをノーザンフィールド公爵に打診した。当然、公爵はこれを拒否する。以前、国王は「辺境伯が女では指揮が取れない。生まれてもない腹の子が後を継ぐなど聞いたことがない」と言われたではないか、と。女子供だから後見人をというなら、後見人となるのは今の領主なのだから、今のままでいいではないか。
自分達が言ったことが、自分達に返ってきたのである。
領民に慕われ上手く治めていた前の領主を追い出した新たな領主は、領民の逃亡や反乱などを招き、王都に逃げ帰っている。グレンがフェルム辺境伯になってから、辺境伯が名ばかりになっている、こんな好機をトレア大公国が、見逃すわけがない。トレア大公国がエルメニアに向けて軍を進めているとの報が王宮にもたらされた。この報にエルメニア国王は動揺した。フェルム辺境伯領はトレア大公国との国境防衛の要の地。一度勢いがついた軍は実力以上の力を発揮する。そこを落とせば、港を欲しがっているトレア大公国は一気に王都まで攻めんで来るだろう。
今迄様子見を決め込んでいた貴族達も、国王に、フェルム辺境伯をヴィクトリアに、後見をアイリーンに戻すように迫った。エルメニアがトレア大公国に占領されれば、辺境伯領どころか、自分たちの領もなくなる可能性が高い。そして以前の辺境伯の弟であり、現辺境伯のグレンはトレアに処刑されるだろう。グレンはようやく、辺境伯をヴィクトリアに返し、後見人をアイリーンにすることに同意した。ある条件をつけて。
その条件とは「結婚可能年齢になれば、ヴィクトリアとグレンの嫡男のクラレンスとを結婚させる」こと。これに対し、ヴィクトリア側も条件を出した。「後見人はアイリーンでなく、ノーザンフィールド公爵にすること。」その契約は王宮の諸侯の前でなされ、サインをした書類を皆が確認した。
アイリーンと今では公爵家に仕えている側近達は兵を従えて、国境へ向かった。ヴィクトリアも国境に行くことを望んだ。押し留めようとする公爵や側近達に「何のための辺境伯か?辺境伯の自分が戦場に赴かなくてどうする」と言った。その言葉は前線の兵士達に伝えられた。その知らせは兵士達を勇気付け、奮い立たせた。
アイリーン達は行軍の速度を上げるために、いろいろな工夫をした。行路の領主や民も援助を惜しまなかった。それらが効を奏し、従来の三分のニの時間でに到達したのである。この事は自軍を勇気づけ、敵軍を怖気させた。怖気付くということは、気持ちの上で負けているということである。この時点で勝敗は決したようなものだ。アイリーン達が到着して一週間も経たないうちに、戦はエルメニア王国の圧勝で終わった。
その後、女辺境伯となったヴィクトリアと母親のアイリーンは一年の半分をフェルム辺境伯領で暮らし、残りの半分を王都とノーザンフィールド領で暮らした。領民はヴィクトリアをグレンが名乗っていたフェルム辺境伯ではなく、染め物の名前であるシュバルツ辺境伯と呼び始めた。
シュバルツ辺境伯ヴィクトリアとサンタナ伯爵嫡男クラレンスの結婚の年が近づいてきた。結婚すれば、後見人は夫になるのが普通である。ヴィクトリアの夫になるクラレンスは、まだ、自分が後見人をつけた方が良いような歳である。グレンはこれでフェルム辺境伯が自分の手元に戻り、後見人として領で好き放題できると喜んでいた。
しかし、クラレンスは落馬であっけなく命を落としてしまったのである。婚約者がいなくなったヴィクトリアは、公爵家嫡男のコンラッドと婚約した。グレンはヴィクトリアが辺境伯を継ぐ条件に「グレンの嫡男」のクラレンスとの結婚があったことを持ち出し、「ヴィクトリアとコンラッドの婚約破棄」グレンの次男で「新たに嫡男となったダンカンとヴィクトリアの結婚」を後見人である公爵に迫った。が、公爵はヴィクトリアと婚約したのは嫡男の「クラレンス」であるとして、これを拒否した。
納得がいかないグレンは不当性を国王に訴えた。国王はもう、フェルム辺境伯の件には関わりたくはなかったが、正式に訴えられては無視するわけにもいかず、法廷を開いた。
出廷したグレンの言い分はこうだ。
「もともと自分が継ぐはずだったフェルム辺境伯を返すための、女辺境伯となっているヴィクトリアと自分の嫡男だったクラレンスとの婚約であった。辺境伯を返すために、新たに嫡男となったダンカンと結婚するのは当然である」
それに対して公爵とアイリーンはこう反論した。
「婚約したクラレンスは死んでしまった。死人と結婚することはできない。婚約したのは嫡男であったが、クラレンスであってダンカンではない。辺境伯を渡せというのなら、渡す。ただ、ヴィクトリアの婚約者だった者はクラレンスである。婚約の契約書類にもそう記されているし、この法廷にいる貴族の皆が証人である。」
法廷にいた貴族は、ヴィクトリアを支持した。グレンに辺境伯としての能力がないのは明らかだったし、そんな人物を辺境伯にしていれば、また、トレア大公国に攻めいられるのが目に見えている。今、この揉めている間にも、攻め入ってくるかもしれない!
グレンも辺境伯の位だけ返されても何も旨味はない。辺境伯領の難しさは身に染みた。「法廷で支持が得られないなら仕方ない」ということにして、訴えを取り下げた。
それ以来、シュバルツ辺境伯はヴィクトリアの子孫に受け継がれていく。
強大な権力を与えられている辺境伯は随分と魅力的なのだろう。度々、サンタナ伯家は辺境伯を返すようにノーザンフィールド公爵家に迫る。国境の辺境伯領は国防の要の地。凡人には務まらず、金もかかる。故に、賢い者は辺境伯の返還を迫らず、愚かな者だけが権力に釣られて、返還を迫る。当然、領民の反対にあい、返還されることはない。それに時の国王がサンタナ伯爵家に辺境伯を渡しても、領民の反乱や経営の失敗、トレア大公国の侵攻によって、結局、ノーザンフィールド公爵ブルーローズ家に返ってくるのだ。