追想 side風巻①
記憶があるのは俺が5歳の頃。目を開いたときに見た世界が俺の始まり。
その日は土砂降りの雨が降るどんよりとした天気だった。夏より少し前。じとっとしながら、どこか寒くて、俺はびしょ濡れのまま目の前の家を見上げていた。
なんでここにいるのか。自分が誰なのか。まったくわからない。
真っ白な家を見上げているとふと隣に人が立っていることに気づく。真っ黒のコートに身を包み、フードを深くかぶっていて顔は見えない。ただ、その人の唇にほんのりと赤いべにが差していることは小さな俺の背丈でもわかった。女、だと思うその人は俺と同じ様にじっと目の前の白い家を見つめている。
この人が誰なのか。どうして2人でびしょ濡れなのか。疑問はたくさんあったが尋ねることはなかった。今まで俺とこの人しかいなかったところにもう1人現れたからだ。
「どうしました?」
おそらくこの家の主人、老齢の男は傘をさしながら俺たちを不思議そうに見ながら恐る恐る近づいてきた。
まあ、そうだろうな。傘もささない俺とこの人を見て怪しいと思わない方がおかしい。
俺はじっと隣に立つ黒ずくめの人を見上げた。その人は一歩前に出て老齢の男の前に立った。
「この子を預かってほしい」
黒ずくめの人は女性にしては低く、それでいて甘い声で老齢の男に呟いた。そしてそっと俺の背に手を当てると老齢の男の方へ押した。
「なに……?」
老齢の男は驚いた様に俺に視線を向けてきた。俺は不安げに老齢の男を見上げた。俺にとってみればどちらを頼っていいかすらわからない。
傘が舞う。ふわりと突風が吹くと俺は舞い上がった傘に自然と目が行った。次の瞬間、頭に何かが当たるのを感じた。大人の手。黒ずくめの人が俺の頭を撫でた。だが振り向いたときにその人はもういなくなっていた。
老齢の男は暫く呆けていたが、俺を捨て置くわけには行かず家の中へ入れてくれた。
◇
男は俺の義父となる風巻道重。この家、施設の管理をしており、他に保育園の園長もしているらしい。この人を俺は父さんとかオヤジと呼んだことはない。戸籍上は親子だが施設にいる子どもたちと差をつけるつもりはないと初めに釘を刺されたからだ。
だから俺はこの人のことを園長と呼ぶ。園長の妻である美智子のことは他の先生たちを呼ぶように美智子先生と呼んだ。
この頃の俺は人ではないと思っていなかった。どこにでもいる普通の子どもの一人。だが、同年代の子と遊ばず、1人で本を読むことが多く、口数も極端に少ない俺に大人たちは手を焼いていたらしい。
俺自身、皆とはしゃいで遊びたいと思わなかった。
「悠馬、何読んでいるんだい?」
保育園の図書室で1人本を読んでいる俺のところに園長はやってきた。おそらく教員用であろう本を抱えていた俺を見て園長は「ほほう」を感心しながら隣に座る。
「ほう、これはまた難しいのを読んでるな」
「そうかな」
「将来はきっと大物になれるぞ。先生は楽しみだよ」
カラカラと笑う優しい人だった。決して品は良くなく、それでいてガサツなわけでもない。俺は園長のことが好きだったし、誰よりもこの人の一番になりたかった。保育園でも施設でも園長は俺を一番にすることはなかった。
◇
年月は経ち、俺は中学2年生になった。
幼い頃と違って人とそれなりのコミュニケーションがとれるようになり、これまたそれなりの学校生活を送っていた。
この頃には自分が少しだけ人と違うのだろうと理解していた。俺が凄むと途端に恐怖して逃げていく人間を何人か見たことがある。同級生の山本を助けたときも、相手は何をしたわけでもない俺を見て逃げ出した。妙なことが起きていた。でも、俺の強さにビビッただけ、そう思っていた。
事件は突然起きた。
あれは暑い夏。晴天の日が続いていたがその日は大雨が降っていた。やけに涼しく、雷も止むことを知らないのかずっと鳴り響いている。
学校は夏休みに入り、勉強はそこそこに終わらせ、俺は小さい頃世話になった保育園のボランティアに行っていた。施設で育った子どもたちは代々時間があるときに手伝いに行く。誰かに無理強いされるわけではなく自然とそういうものだと子どもながらに思っていた。
土砂降りの雨の中、外に出るわけには行かない子どもたちと園の中で遊んでいると、俺は体に違和感を覚えた。熱っぽい、怠い、息苦しい。その中に確かに感じる欲を覚えた。目の前の小さな子どもたち、女性保育士。中学生になった俺なら簡単に奪える。何を?頭では理解していなくても体が欲するそれに俺は慌ててその場を後にした。
誰もいないホールに行き、すかさず用具室に入ると小さな跳び箱の後ろに隠れ、しゃがみこんだ。
渇いている。欲しい。苦しい。足りない。
奪え。その場にいるもの全て奪ってしまえ。
内から聞こえる囁き。俺は強く耳を塞いだ。
きらりと何かが光る。天窓からの少ない空の明かりを吸い込んだ鏡が少しだけ光った。それだけだ。なのに俺は自然と顔を上げてしまった。そこに映る自分自身。俺は息をのんだ。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。




