第三十二話 冷気
「これは……穴……?」
闘技場の三番通路。
その奥にある分厚い扉を開くと、たちまち大きな空間が広がった。
闘技場にもともとあったスペースらしく、古びた壁は一部が風化している。
そして土がむき出しの床には大きな穴が開いていた。
さながら井戸のようなそれは、明かりを差し入れても底がまったく見えない。
「うわ、何だか気味が悪いね……」
「ああ。だが、地下への入り口はここしかないようだな」
「こいつを使うみたいですよ」
穴に向かって縄梯子が掛けられていた。
手にしてみると存外しっかりとしていて、引っ張っても千切れるような気配は全くない。
さらに埃もついておらず、最近使われたような形跡がある。
「じゃあ、ボクから行くね。よいしょっと!」
腰に魔石のランプを吊り下げ、先陣を切るクルタさん。
流石はAランク冒険者というべきか。
深い闇の中をスルスルと降りていき、瞬く間にその姿が小さくなった。
「着いたよ! 次!」
「私が行こう」
「気を付けてね。姉さん、重いから」
「……なっ! お、重い!?」
「だって、鎧を着てるじゃないか」
俺がそう言うと、ライザ姉さんはやれやれと呆れたように息をついた。
……あれ、そんなに気に障るようなこと言ったっけ?
俺が首を傾げていると、穴の底から早くしろと声が聞こえてくる。
わ、姉さんはもう降り切ったのか。
重い鎧を着ているはずなのに、軽装のクルタさんとさほど変わらないスピードだ。
こうして慌てて縄梯子を降り始めると、またしてもスゥッと嫌な冷気が抜けていく。
「やっぱりこの奥だな。物凄い冷気だ……」
さながら、穴の底が雪国にでも通じているかのような冷たさ。
俺は身体をぶるっと震わせながらも、そのままゆっくりと下に降りていく。
こうして穴の底にたどり着くと、そこはちょっとしたホールのような空間となっていた。
そして大きな横穴が空いていて、さらに奥へと続いている。
「風が吹いてくる。こっちだよ」
クルタさんを先頭に、ゆっくりと洞窟を歩き始めた俺たち。
通路は細く曲がりくねっていて、以前に訪れた黒雲洞に似た感じがした。
だがあの場所と決定的に違うのは、洞窟全体に漂う気味の悪い冷気だ。
魔力を孕んだそれは、進めば進むほど濃さと鋭さを増していく。
その寒さときたら、冬山でも登っているような気分だ。
「うぅ、寒い! 何なのだこれは……?」
「コートでも持ってこればよかったね」
「いや、これは……」
俺は壁に張り付いた虫を見て、とあることに気付いた。
そしてすぐさま、仮説を確かめるべくふうっとゆっくり息を吐く。
すると気温が低いはずにも拘らず、息はまったく白くならなかった。
「やっぱり……ここ、本当は寒くないんだ」
「む? どういうことだ?」
「そうだよ、今にも凍えちゃいそうなのに」
身を小さくしながら、寒いことをアピールするクルタさん。
姉さんもそれに同意するように頷く。
しかし俺は、すぐさま首を横に振った。
「いいえ、寒くないです。俺たちが寒気を感じているのは、生命力を奪われているからですよ」
「生命力を? どういうこと」
「この虫を見てください。妙に動きが遅いんです。それに、こんなに寒い場所なのに息を吐いてもまったく白くならない」
「……ちょっと待ってて」
そう言うと、クルタさんは懐から水の入った革袋を取り出した。
そして中身を口に含むと、むむっと眉間に皺を寄せる。
「温い。普通、こんなに寒かったらすぐ冷えちゃうのに」
「でしょう? 俺たちが寒く感じているだけなんですよ」
「しかし、これは厄介だな。このままでは凍死するぞ」
「大丈夫。サンクテェール!!」
手のひらから光を放ち、聖域を展開する。
たちまち周囲の冷気が吹き飛ばされ、寒気が収まった。
よし、聖域で十分に対抗できるみたいだな。
こうして安全な空間を確保した俺たちは、一層注意しながらも歩を早める。
やがて……。
「うわぁ……! なにこれ……!」
「魔法陣か? ずいぶんとまた大規模だな」
通路が途切れ、現れたのは聖堂を思わせる大空間であった。
石で出来たその天井と床には、複雑で精緻な魔法陣がびっしりと刻み込まれている。
ここは、いったい何の施設だ……?
すぐに魔法陣を読み解こうとするが、あまりにも大規模ですぐには全容がつかめない。
これほどの代物、ひょっとすると人間が作ったものではないかもしれないな……。
「やっと来たか。少し待ちくたびれたぞ」
「ゴダート!? どこだ、どこにいる!?」
「ここだ」
やがて大空間の奥から、ゴダートが姿を現した。
その手には意識を失っているらしいアエリア姉さんが抱かれている。
「貴様……!! アエリアに何をした!!」
「少し寝てもらっただけだ。特に危害は加えておらん」
「もし傷の一つでもつけてみろ。貴様を今すぐ斬る!!」
剣を抜き、力強く宣言するライザ姉さん。
その全身から溢れる気が、物理的なオーラとなって淡く輝く。
これが姉さんの……剣聖の本気か……!!
家族を危険に晒され、普段を上回る力を発揮しているのだろう。
その威圧は、かつて感じたことがないほどであった。
するとここで、ゴダートの後ろからさらに人影が現れる。
「おお、恐ろしい! だが、だからこそ君にはしてもらいたいことがある」
「誰だ貴様は!」
「私はシュタイン。この国の王となる者だ」
暗闇の中から現れた線の細い男。
彼は確かに、第一王子の名を名乗ったのであった。




