第5話 風の神殿
風と商売の神・ヴァーユの神殿はナヴァール川を挟んで反対
側の市街地にある。
商人が多いこの街ではかなり有力な神殿であり、風を意匠と
した美しい建物は遠くからでもよく目立った。
「久しぶりね。テニールス様にお会いするのは」
どこか楽しむような口調でミリアムが言ったのは、正門を抜
けてしばらくしてからのことだった。
「魔術師ギルドってリ=ウ神殿とつながりが深いけど、あっち
は真面目なだけで面白くないのよね。同じ説法ならテニール
ス様の方がずっとためになるし」
「テニールス様って、どのような方なのですか?」
大きな神殿の中央が吹き抜けと回廊で構成されていることに
感心しながら、アネスは聞き返した。
「会えばわかるわよ。とにかく話し易い方なの。ちょっとした
揉め事の仲裁とか、大事な契約の公証人とか、頼めば色々や
ってくれるの」
「だからアネスの身元もわかるような気がするんだ。他の神殿
とかにも問い合わせてくれるはずだしな」
目にも鮮やかなコットを身につけた少女は、肯定も否定もし
なかった。
唯一の手がかりである細身の剣を握りしめたまま、黙々と雪
景色の回廊を歩いていたからである。
たぶん、わたしは<誰>なのか簡単にはわからないわ。わた
しに似た人なんて誰もいなかったし、剣まで持っているから。
でも、確かめないと。
「テニールス様、お久しぶりです」
心の中で考えていると、ランベルが軽く手を上げた。
顔を上げてみると、深青色の丈の長い神官服を着た人物が礼
拝所から出てきたところだった。
歳は二十代後半というところだろうか。
短く刈り上げた髪が似合う精悍な顔だちだったが、小さな鼻
眼鏡の奥に見える目は柔和そのもので、親しみ易い雰囲気を漂
わせていた。
「ランベルにミリアム殿か。久しぶりや。もうかりまっか?」
「はい。おかげさまで」
「あたしもぼちぼちです。神殿長様」
「そらええ事や。ところで、その娘さんは?」
<神殿長>という人物からは想像もつかない軽妙な言葉遣い
にアネスが戸惑っていると、突然話題が移ってきた。
慌てて挨拶をするよりも早く、ランベルが口を挟む。
「彼女は俺が今朝、中央広場で見つけました。記憶を失ってい
て自分が誰なのかもわからないそうです」
一瞬だけ、神殿長……テニールスは戸惑ったようだった。
しかし、軽く鼻眼鏡を上げると、先程までとは違う重みのあ
る声で答える。
「記憶喪失?それは大変だな。立ち話もなんだから私の部屋ま
で来るといい」
「済みません。こんな相談を持ちかけたりして」
「困っている人を見逃すわけにはいかないからな」
体の向きを変えながら言い切ると、そのまま歩き始める。
先程までの飄々とした雰囲気はかけらも無く、有無を言わせ
ない迫力さえ感じるほどだった。
「どうしたんだ?」
剣を両手で握りしめたまま動かないアネスに気づいて、ラン
ベルが振り向きながら声をかけてきた。
「あ、はい。本当にいいのですか?」
「テニールス様に任せておけばいい。怖そうな顔もするけど誰
よりも親身になってくれるからな」
「でも本当は挨拶した時みたいに気さくな方なの。何回か顔を
合わせればわかるわ」
ミリアムに肩を叩かれて、アネスはようやく歩き始めた。
本当は、自分の<過去>を知ることに対する恐怖感が込み上
げてきていたのであるが、口にするわけにはいかなかった。
神殿長の部屋は大きいながらも質素だった。
執務用の机と椅子、大きな書棚、そして神話を描いたタペス
トリーが目立つぐらいだったが、暖炉には火が焚かれているお
蔭で、部屋主の人柄と同様に暖かった。
「まずは詳しい話を聞かせてくれないかな。覚えている限りで
かまわない」
応接用の椅子に向かい合うように座るのと同時に、テニール
スは単刀直入に話を切り出した。
「わたしは……気がついた時にはこの街の南側にいました。古
い防御壁の外です。手にはこの剣だけを持っていました」
「ってことは南門から街に入ったのか?」
「ランベルは黙ってなさいよ。今神殿長様が質問されてるんだ
から」
「いや、かまわない。南門には兵士が詰めていたはずだが、ど
うやって抜けてきた?」
「それは……面倒になるのが嫌だったので、隙を見てそっと入
りました。ちょうど門を通り抜けようとしていた人がいたの
で助かりました」
神殿長は難しい顔をして腕を組んだだけだった。
ランベルたちには門番の目を誤魔化した事を不快に思ってい
るように見えたが、実際にはまったく違った。
「南門をくぐればランベルと会った中央広場まで一直線。これ
では手がかりは無いに等しいな。街の南側か……」
しかも兵士の目を誤魔化して門をくぐるのは難しい。やはり
只者ではないのか?
「どのあたりか思い出せるか?周囲に防御壁以外の建物とかは
あったか?」
すかさず、ランベルが口を挟む。
「いえ。壁沿いに歩いて門を見つけるまで何も……」
「ということは、例の隕石の近くかしら?」
口元に指を当てて考え込んでいたミリアムが、脈略無くつぶ
やいたのはその時だった。
「あたしも雪が積もる前に一度見に行ったけど、周囲に何も無
い所だったのよね。壁からはそんなに遠くなかったけど」
「だったな。アネス、大きな岩の固まりは見なかったか?」
「済みません。わたしには話が見えないのですけれど……」
言い訳じみた少女の言葉に合わせて、魔術師ギルドの魔法使
いでもあるミリアムが簡単に説明した。
今から一カ月程前、収穫祭が終わったばかりのある夜。
街の南でとてつもない爆発音が響き渡った。
地域一帯が地震の時のように揺れて、寝入っていた住民全員
が飛び起きる程だったが、原因は夜が明けてから判明した。
何も無い平原に、二リジャル(約六メートル)四方はある巨
大な隕石が落下していたからである。
爆発は起こらず、直下の地面が吹き飛ばされただけで済んだ
が、それだけに普通の隕石ではない事は誰の目にも明らかだっ
た。
すぐに魔術師ギルドを中心に調査隊が結成され、噂を聞きつ
けた遠方の学者なども加わってその正体が調べられたが、わか
った事はただ一つだけだった。
この隕石は魔法の力で操られていたという点だった。
「それで調査は打ち切りになって、直後に雪が降ったから誰も
近づいていないと思うわ。本当に、なんだったのかしら?」
「でもアネスとは関係ないだろう?一カ月も前の話だぜ」
「そうね。だったら手がかりはそのコットと剣だけかしら?」
思いつき半分のミリアムの言葉に、テニールスとランベルは
同時に記憶の無い少女を見つめ直した。
視線に気づいたのか、当の本人はわずかに頬を染める。
「率直に言えば、このような色合いのコットを見るのは初めて
だな。私が知る限りでは、<光の十二神>に仕える人間では
ないと思う。しかし、予断は禁物だな。他の神殿には私が問
い合わせてみよう。二、三日中には結果が出るはずだ」
「そんなにかかるのか。だったらその間俺の家に泊まるか?」
さらりと重大なことを言われて、テニールスの言葉に落ち込
んでいたアネスはかなり驚いた。
「親父たちだって反対したりしない。宿代も無いだろう?」
「ランベル、どうしたのよ急に。まさか……」
「何度も言うけど、俺はアネスをセシルの身代わりにしたりし
ない。ただ助けたい。それだけなんだ」
嘘を言っているとは思えない、力強い言葉だった。
ミリアムは「こーなると梃子でも動かないのよね」と呆れた
ようにつぶやき、テニールスも鼻眼鏡を上げて何も言わなかっ
た。
「だったら、お世話になります。ただし、わたしもお店を手伝
います。それでもいいですか?」
「客に手伝わせるわけにはいかないだろう?お前はゆっくりし
てればいい」
「ランベルの朴念仁。こーいう時は素直にうなづけばいいの。
アネスは色々な意味で不安なのよ。だったら自分のしたいこ
とをさせればいいじゃない」
「……そういうものなのか?」
「そうなの。ったく、これじゃランベルに見つけられたのが良
かったのか悪かったのかわからないわね」
腕組みまでして、アネスに同情していたミリアムだったが、
話が脱線しているのに気づいて、慌てて事情聴取を再開した。
しかし。
それから半刻(三十分)以上粘ってみたものの、それ以上新
しい事はわからなかった。
「こうなったら、後は神殿長様にお任せするしかないわね」
ヴァーユ神殿を後にするのと同時に、ミリアムが溜め息混じ
りにつぶやいた。
いつの間にか厚く垂れ込めていた雪雲は切れ始めており、そ
の隙間から薄日が差し込むようになっていた。
「あたしはすぐに分かると思ってたのよ。だって珍しいじゃな
い。黒髪に黒い瞳だし、こんなに綺麗なコットを着てるんだ
から」
「でもテニールス様に思い当たるところが無いとなると厄介だ
な。まあいい。いざとなったら記憶が戻るまで俺の家で保護
するのもいいな。言っておくけど、親父たちも俺も迷惑だな
んて思ってないからな」
「このままだと路頭に迷いそうな人を見逃せないでしょう?あ
たしも同じことをしたと思うわ」
「……わかりました」
剣を握り直して、アネスは素直に頷いた。
ここまで親身になられると、断る気さえ起こらなかった。
この人たちは本当に親切なのね。わたしがとんでもない罪人
かもしれないのに世話してくれるんだから。罪人……?
ふと浮かんだ単語を心の中で繰り返した瞬間、鈍い痛みが全
身を走ったような気がして、思わず立ち止まってしまった。
ランベルたちはきょとんとしたような顔をしていたが、作り
笑いをして無理にごまかす。
なぜ<罪人>という言葉に引っかかるのかしら?もしかする
と、わたしは本当に罪を犯したから……?
心に苦いものが広がってくる。
痛みを堪えて真実を見つめようとしても、目に映るのは深い
闇だけで、その奥に何があるのかまったくわからなかった。
「アネス、大丈夫?」
様子がおかしいのに気づいて、ミリアムが声をかけてくる。
「うん。ちょっと気分が悪くなっただけだから。でも平気」
「寒いところにずっといたからな。早く帰って休ませないと」
「そうね。肩を貸してあげたら?剣はあたしが持つから」
首を振って遠慮しようとした黒髪の少女だったが、親切心の
固まりのような二人には通じなかった。
すぐにランベルの左腕が小さな肩に回され、そのまま歩くこ
とになったからである。
ぶっきらぼうで<朴念仁>な少年だったが、触れ合ったとこ
ろからは温もりが感じられて、アネスを安堵させた。
「街の連中の目は気にするなよ。噂になるかもしれないけど、
こればっかりは仕方ないからな」
「ええ。でも、あなたが……」
「俺のことは気にするなって。まずはお前を休ませないとな」
ただ訴えただけでは聞く耳を持たないことには気づいていた
ので、アネスはそれ以上何も言わなかった。
道行く人たちの好奇に満ちた視線が痛かったが、ランベルた
ちの気配りが心を温めていたので気にならなかった。
「ところで……手首に巻いているのは、何なのですか?」
思い出したようにアネスが口を開いたのは、広場を抜けて港
に向かう坂道を下り始めた時だった。
上衣から左手首がむき出しになっていて、そこに白いリボン
が結ばれていたからである。
「これは……俺の婚約者の形見なんだ。それ以上は言えない」
「あっ。ごめんなさい」
「俺は誰かを身代わりにするつもりは無いけど、自分なりに償
いはしたいと思ってる。その一つがこれなんだ」
肩を貸されている少女は何も言わなかった。
ランベルの言葉に、計り知れない程の<重み>を感じていた
からである。
雲の切れ間から差し込む弱い日差しが、道を照らし出した。
自分の事だけでなく、親切にしてくれる少年の事まで考えて
気が重くなっていたアネスだったが、その明るさにわずかに表
情を緩める。
記憶が戻り、自分が<誰>なのか分かるまではランベルたち
の世話になってもいいかもしれない。
心のどこかで、そんな事を考え始めているのだった。