第3話 差し出された手を握り返して
防御壁から見えた街の中心広場は、一面を白い雪に覆われて
ひっそりと静まり返っていた。
ここに来るまでに街の建物などを随分と見たものの、覚えの
あるものは一つとして無かった。
だったら、なぜわたしはさっき、この街を見て<懐かしい>
と思ったりしたのかしら?全然覚えがないのに。
全身にじわじわと広がる焦りと疲れに押し潰されながら、噴
水のへりに腰かけた少女は思った。
それとも、わたしは元々この街に住んでいたのかしら?だと
したら、街の人に話を聞けば分かるかもしれないけど……。誰
もいないわね。
肩に落ちてくる髪を背中にやって、小さく息を吐く。
同時に空腹を感じて、余計惨めな気持ちになる。
寒い……。早く暖かい所に行きたいわね。このままだと体が
もたないわ。でも、どこに行けばいいのかしら?
記憶と共に基本的な知識まで失ってしまったのか、少女の頭
の中には何も浮かんでこなかった。
食べ物を買うお金も無いわね。あるのはこの剣だけ。でも、
これは手放せないわ。手がかりになるはずだし、それに……。
遠くから早い足音が聞こえてきたような気がして、少女は反
射的に脇に置いていた剣に手をかけた。
柄の冷たさが感じられた瞬間、初めて会おうとしている人間
を警戒していることに気づいたが、手を離すよりも早く。
伏せたままだった視野に、丈夫そうな半長靴が映った。
ゆっくりと顔を上げてみると、赤みを帯びた髪を幅広の布で
留めた少年が疑問を隠せない様子で見つめていた。
「こんなところで何をしてるんだ?風邪ひくぜ」
少女は何も言わなかった。
正確には、言葉自体が思いつかなかったのである。
「見た感じ、この街の人間じゃないな。旅をしてきたのか?」
無言のまま、ゆっくりと首を振る。
さらりとした髪が揺れて、積もっていた雪が落ちる。
「じゃ、どうしたんだ?立派なコットを着てるし、剣まで持っ
てるからな。神官戦士か?それとも……」
「わたしは……」
何かに背中を押されるようにして、少女は口を開いた。
乾きかけた唇を無理に動かそうとして、発声が少し変になっ
たので、少し間を置いてはっきりと言い直す。
「わたしは、何もわかりません。自分の名前も、ここがどこな
のか、これから何をすべきなのかも……。だからあなたの質
問には答えられません」
わずかに雪風が強まって、二人の間を吹き抜けていった。
少女は反射的に髪を手で押さえたが、向かい合う少年は魂を
抜かれたような表情を浮かべているだけだった。
しかし、風が弱まると、後頭部に手をやりながら聞き返す。
「本当……なのか?もしかすると、記憶が無いのか?」
「ええ。覚えているのはついきっき、あの防御壁の外に立って
いたことだけです。それ以前のことは何も……」
「そうなのか……」
厄介な事になった、と少年は内心思ったようだった。
しかし、一度外れた目線が再び合うと、元気づけるように言
葉を続ける。
「でも、そんなに立派なコットを着てれば手がかりになると思
うぜ。そうだ。神殿が開くまでもう少し時間があるし、それ
まで俺の家に来るか?食事ぐらい出すぜ」
「え?そんな……」
「気にするなって。困っている人間を見捨てるわけにはいかな
いだろ?立てるか?」
赤毛の少年が表情を緩めたかと思うと、少女に対して手を差
し出してきたのはその時だった。
あまり他人に迷惑をかけたくない。
そう思っていたこともあって、婉曲に断ろうとしたのである
が、差し出された手を見つめている内に。
声をかけてきた少年を信じてもいいような気がしてきた。
精悍ながらも、どこかやんちゃな感じのする笑顔が警戒心を
解きほぐしていたのである。
少しだけ、世話になってもいいわね。神殿に行けばわたしが
誰なのかわかるかもしれないし。その間だけでも……。
心の中で小さく頷くのと同時に。
少女は剣から手を離すと、差し出された少年の手をしっかり
と握り返した。
初冬の屋外にいたのにも関わらず暖かさが感じられて、涙腺
が緩みそうになる。
「随分長い間ここにいたんだな。手が冷たいぜ。ま、どこに行
ったらいいのかもわからないんじゃ当然か」
「ええ……。本当に、ごめんなさい」
「謝ることなんか無いぜ。俺が好きでやってるんだからな。俺
はランベル=グリマルディ。ランベルでいいぜ」
「わたしは……」
反射的に自分の名前を口にしようとして、ようやく立ち上が
った少女は小さく首を振った。
今の自分には目も覚めるような鮮やかな色合いのコットと立
派な長剣以外何も無かったからである。
それでも。
握られたままの手から伝わるランベルの体温が、少女の凍て
ついた心を少しずつ溶かし始めているのだった。
広場から西に伸びる大通りは、ゆるやかに下っていた。
その先にこの国でも有数の港があり、春から秋にかけてかな
り賑わうという。
「もう冬だから遠くからの船は来ないんだ。海も荒れるし、北
部地域から交易に来る商人もいないしさ。お蔭でこの時期、
家は割と暇なんだ」
「商売をしているのですか?」
「ああ。食料品店だ。街の人たちと船乗りたち両方を相手にし
てるから実入りは悪くないぜ」
「兄弟は?」
「一人っ子だから他にはいない。親父とお袋の三人暮らしだ」
「迷惑……じゃありませんか?わたしみたいな人間が突然行っ
たりして」
「そんなことないぜ。それより、名前が無いと不便だな」
話をはぐらかすように、ランベルは話題を変えた。
今思いついたように言葉を続ける。
「そうだな……。アネス、でどうだ?この地方の方言で<白い
雪のように>という意味があるんだ。雪のような肌をしてる
し、ちょうどいいな」
「アネス……。白い雪のように……」
ランベルの言葉を自分で繰り返して、少女は恥ずかしさのあ
まり頬を染めた。
心まで熱くなって、返す言葉が出てこなかった。
「どうしたんだ?そんな顔して。いいと思うけどな」
「そんな……。やっぱり恥ずかしいから他の名前に……」
「正体がわかるまでなんだからいいだろう?」
表情は笑っていたが、少年の目は真剣そのものだった。
軽い性格のようにも思えたが、一度決めると動かないところ
もあるようだった。
「だったら、アネスでいいです。……そういえば、こんなに黒
い髪をした人間ってこの当たりに多いのですか?」
「いや。ただ、他の大陸から来たんだったら珍しくない。とに
かく、神殿にでも行けば手がかりぐらいあるさ」
楽観的に言い切って、ランベルは正面に向き直った。
いつしか雪は小止みになりつつあり、東の空も遅い夜明けを
迎えて明るくなってきた。
それに合わせるかのように建物からは人が出てきたが、非常
に目立つ姿をした少女……アネスを見ると、皆一様に驚いたよ
うな表情を浮かべた。
ううん。それだけじゃないわ。ランベルさんも見ているわ。
なんか……あまり好意的じゃないみたい。
ちらりと隣を歩く少年の顔をのぞき込む。
色々な意味の込められた視線を四方から投げかけられても、
全て受け止めて心の奥に仕舞い込んでいるようだった。
「気にしなくてもいい。アネスは関係ないからさ」
「え?」
「目立つ服装に剣を持った少女が歩いていているだけならあん
顔をしたりしない。俺の方に原因があるんだ」
「いったい、何が言いたいのですか?」
「長くなるから家に着いたら話す。ただ、今のうちに言ってお
く。俺はお前を<身代わり>にする為に助けたわけじゃない
からな」
アネスの耳にしか届かない小さな声だったが、憤りと決意が
入り混じって内面から滲み出たような言葉だった。
意味はわからなかったが、小さく頷いてみせると「だったら
いい」とつぶやいて目線を戻す。
最初はただの人当たりのいい少年だと思っていたが、共に歩
き続けている内に、かえってわからなくなりつつあった。