第2話 壁の向こう側
無数の雪が、螢火のように舞い降りていた。
少しずつ明るくなりつつある空が、今が夜明け前であること
を告げていたが、少女は何かを確かめるように漆黒の瞳を周囲
に向けた。
目に入ってくるのは真っ白な雪原と低く垂れ込めた雪雲、そ
して今にも崩れそうな石造りの防御壁だけだった。
ここは……どこなのかしら?そして、わたしはなんでこんな
ところにいるのかしら?
心の中で、問いかけは虚しく反射する。
すでにどれだけの時間、こうしているのだろうか?
白と青を基調とした美しいコットも雪にまみれていたが、答
えが見つからなくては動けそうになかった。
わたしは何かをしなければいけないから、ここに来た。そし
て、この剣が必要だから持ってきた。でも、何をしなければい
けないのか……わからない。
積もりつつある雪を落として、少女は自分が手にしている剣
を目の高さまで持ち上げた。
凝った装飾が施された鞘に収められた細身の長剣。
それが少女の唯一の所持品だった。
わたしは……この剣を使いこなせる。そして、この剣を使っ
て<何か>をしなければならない。でも、どうやって?
剣を下ろして、少女は長い黒髪をふわりとなびかせながら視
線を上に向けた。
自分が誰なのか、そして何をしなればならないのか。
まったくわからなかったが、空を見上げると落ち着くことが
できた。
まず……歩くしかないわ。あの防御壁の向こう側に何がある
のかもわからないんだから。
虚ろな心に血が通い始めるのと同時に。
少女はゆっくりと歩き始めた。
降り続ける雪を漆黒の瞳に映し出し、足跡だけを残しながら
石造りの古い壁の方へと向かう。
薄暗い空からこぼれる夜明け前の光は思った以上に明るかっ
たが、周囲に見えるのは石造りの壁と雪原だけだった。
防御壁に行く手を塞がれたのは、それからしばらくしてから
のことだった。
当たりを見回すと、崩れかけた階段が視野に入ってきた。
防御壁に階段?後から作ったものみたいね。
一瞬考えると、剣を携えた少女はしっかりとした足取りでそ
こを昇る。
時折吹き抜ける北風が肌に突き刺さり、痛みに似た感覚をも
たらしたが我慢して歩き続ける。
「……」
最後の段を登り終えて視野が開けた瞬間。
少女の足が止まった。
防御壁の奥には想像していたよりもはるかに立派な町並みが
広がっていたからである。
西側は暗く静まる海に面し、多くの船が停泊する港や倉庫な
どが軒を並べている。
街は中央を流れる川と街道によって十字型に分けられ、その
真ん中には市が開けそうな広場がある。
周囲には背の低い丈夫そうな建物が立ち並んで下町を構成し
ており、それらを統括するかのように北西の丘の上には大きな
邸宅があった。
壁に囲まれた街ね。わたしはこの街を知っている……?うう
ん。覚えはないわ。でも、なぜか<懐かしい>感じがする。昔
こんな風に街を眺めたことがあって……。
初めて浮かんできた<過去>を、何とかたぐりよせようとし
た少女だったが、それ以上は何も思い出せなかった。
思い出したい事柄は全て、固い鍵のかけられた丈夫な扉の奥
に閉じ込められているようだった。
よくわからないけれど、わたしはあの街に下りないといけな
い。きっとそこに、記憶を取り戻す手がかりはあるから。
季節風が一段と強く吹き抜けた。
地面に積もった雪が舞い上がり、下ろしただけの豊かな黒髪
も大きくなびいたが、空いてる手でそっと押さえる。
心の奥から、迷わず前に進めという声が聞こえてきた。
なぜなのか分からない。
しかし、従わなくてはならない気がした。
もちろん行くわ。わたしが<誰>なのか知る為に。
右手に持った剣を強く握り直すと、体の向きを変えて階段を
降り始める。
最初の目的は、自分がどこにいるか確かめることだった。
街の南外れにある共同墓地を出る頃になっても、雪は止みそ
うになかった。
北からの季節風は自らの存在を確かめるように吹き続け、羽
織ったマントを揺らし続けている。
風と共に舞う雪が体に当たる度に体温が奪われるような気が
してならなかった。
今年は冬になるのが早いな。収穫祭から一カ月ちょっとでも
うこの天気か。
自分の足跡だけが残るトラチスタヌ街道に出るのと同時に、
ランベル=グリマルディは白い息を吐きながら心の中でつぶや
いた。
サイレノス王国の中でも北に位置して、北部地域との交易で
栄えるセガンの冬の訪れは早い。
十一月の後半ともなると街は白い雪で覆われ、港も氷結して
船の出入りが不可能になる。
陸路を行く人間も少なく、市も春まで休みだった。
ってことは、セシルがいなくなって二カ月になるんだな。で
も俺はまだ何もできないでいる。あの忌ま忌ましい掟があるか
らな。誰が好き好んでセシルの代わりになるっていうんだ?
ランベルが将来を誓い合った婚約者を永遠に失ったのは、秋
の中頃のことだった。
最初は、些細な出来事だった。
毎日のように顔を合わせていたのにも関わらず、夏の終わり
ぐらいから会う事が無くなったのである。
表面上は平静を装い続けていたが、街最大の祭りである収穫
祭を一カ月前に控えたある日。
思い切って婚約者……セシリアの家を訪ねた少年は、思いが
けない話を聞くことになった。
彼女はしばらく家に閉じこもり続けたかと思うと、突然防御
壁の外にある<闇の森>に行ったまま帰って来ないという。
しかも、ランベルには言わないで欲しいと言い残して。
<別に珍しい事じゃない。セシリアは時々<剣の修行>と称し
て家を空けることがあるんだ。<闇の森>はセシリアにとっ
て庭みたいなものだしな>
ヴァルネス神殿の剣術師範である父親の言葉は楽天的だった
が、ランベルは額面通りに受け取らなかった。
セシリアの剣の腕は知っていたが、自分に何も告げずに姿を
消した事が気になったのである。
その思いはすぐに行動となった。
準備を整えると、<闇の森>に向かったからである。
たとえ嫌われても、セシリアの無事な姿を確かめたい。
心の中で念じながら探し続けた少年だったが、探索の末に。
一番最悪の形で<再会>することになった。
父親顔負けの剣術使いである少女は、全身に傷を負った状態
で倒れていたからである。
慌てて駆け寄ったランベルだったが、すでに虫の息で街まで
救援を呼びに行っても助かるとは思えなかった。
が、しかし。
将来を誓い合った少年が自分を抱き上げたことに気づくと、
セシリアは透き通るような微笑と共にこう言った。
「いつか、全てがわかる日がくる」
それが最後に残した言葉だった。
やがて婚約者は微笑を崩すことなく息絶えたからである。
その後、様子を心配して探しに来たセシリアの両親によって
ランベルと遺体は発見された。
状況はあまりにも奇妙だったが、唯一の証人が<見つけた時
にはすでにこと切れていた>と証言したことから、<事故死>
で処理された。
とはいえ、両親はランベルの関与を疑い続けていた。
証拠は無かったが、人間は何をするか分からないという奇妙
な理屈故に、同調している者もいる状態だった。
……やめよう。考えても始まらない。セシルは死んだ。でも
俺はそれを償わないといけない。ただそれだけだ。
一瞬、心の奥にくすぶる多くの疑念を蒸し返そうとしたラン
ベルだったが、頭を振って雪と共に振り落とした。
ただの逃避と分かっていたが、謎を解き明かすには材料があ
まりにも少なかった。
街を南北に貫く街道に、まだ人影は見えなかった。
夜が明ければ住民たちが活動を始めるのであるが、東の空を
空に目をやっても暗い雲がかかっているだけで、明るくなるま
でまだ少し間がありそうだった。
こんな時間でなければセシルの墓には行けないな。俺はセシ
ルに手をかけた人間という事になってるからな。
頭に巻いた幅広の布にかかった雪を落とし、言葉に出さずつ
ぶやいた時のことだった。
道の先にある街の中央広場に、誰かがいるのに気づいた。
風雪でよく見えなかったが、噴水のへりに腰かけて空を見上
げているようだった。
女……?いや、セシルと同い年ぐらいだ。手に持っているの
はなんだ?まさか、剣?
風を絡ませる長い黒髪、白と青で構成された美しいコット、
そして手には長剣。
見たことも無い姿の少女に、ランベルは心を奪われて自然と
足も早くなっていた。
少しずつ、横顔なども見えてくる。
髪の色も瞳の色も違うけど、セシルに似てる。それにあいつ
は剣を使うのが上手かった。まるで生まれ変わったみたいだ。
後は何も考えられなかった。
降り積もった雪を巻き上げながら、ランベルは謎の少女の元
へと駆け寄って行った。