4話 最強?
何事もなかったように静まり返ったリビング。 俺の前にはセイレーン族のリーサが座り、祈るようなポーズで優しく微笑みながらアヴェ・マリアを歌っている。 あのキンキン声からは想像できない柔らかな歌声が心地よく、体全体が温かい感覚に包まれているようだった。
ハーデスとじゃんけん勝負の後、情けないことに俺は腰を抜かしてその場に座り込み、極度の緊張で吐き気を催して動けなくなってしまったのだ。 おまけに少しチビってパンツの前部分が冷たい…… 。
― 少しは落ち着きましたか? ―
頭の中に直接響いてくる声…… 何事かと辺りを見回してみても、誰かがいるような感じはしない。 目の前の彼女に視線を移すと、彼女は歌いながら微笑んでくれる。
― 私です。 治癒の歌の途中なので、あなたの心に直接お話してます ―
「そんなことが出来るんだ。 神々ってやっぱり凄いな 」
彼女は歌うのを止めて突然笑い出す。
「私は神ではありませんし、あれほどの力も持っていませんよ。 それにしてもハーデス様にケンカを売る人間なんて初めて見ました。 勇気ありますね 」
俺の掛け声で俺が出したのはパー、ハーデスが殴りかかるように勢いよく出したのがグー。 そう、俺の勝ちだ。
「あんなハーデス様も初めて見ましたけど 」
ケラケラと彼女は笑う。 じゃんけんに負けたハーデスは自分の拳を見つめたまま固まってしまい、プルプルと肩を震わせた後、もう一回だと駄々を捏ね始めたのだ。
「俺はペルさんを怒らせたらヤバいと初めて知ったよ 」
もう一回だと言う申し入れを俺が断ったのが気に入らなかったのか、ハーデスは力任せに俺に掴みかかってきたのだ。 それがペルさんの逆鱗に触れたらしく、ハーデスはペルさんの前に正座をさせられ散々説教を受けた後、ペルさんが呼び寄せた番犬ケルベロスに首根っこを咥えられて光の魔法陣で強制送還されたのだった。
「それにしても大博打でしたね。気合の勝利といったところでしょうか 」
「じゃんけんにはちょっとしたコツがあるんだよ。 急かされると大抵の人はグーを出す。 力んだ時は本能的に拳を握る人が多いからね 」
更に挑発する事で頭に血が上ったハーデスは、本能の赴くまま殴るようにグーを出したというわけだ。
「なるほど…… でも負けた時はどうするつもりだったんです? ハーデス様はホントに一万回殺しますよ? 」
「負けた時の事なんて考えてなかったよ。 どうせ冥界の王が相手なんだから何でもありだと思ってさ 」
気持ちもある程度落ち着いて、足にも力が入るようになってきた。 俺はその場からふらつきながらも立ち上がる。
「もう大丈夫、ありがとう。 嫌な汗いっぱい掻いたからシャワー浴びてくるよ 」
チビってパンツが気持ち悪いからなんて恥ずかしくて言えない。 俺はそのまま彼女に背を向けておぼつかない足でバスルームに向かった。
翌朝、雀の鳴き声で目が覚める。 ケルベロスに跨がってあちらに行ったペルさんを待っていたが、そのままソファで眠ってしまったようだ。
「お目覚めか? 旦那様 」
ソファの後ろを振り返ると、そこにはエプロン姿のペルさんが立っていた。 両手には食器を載せたお盆を持っている。 何か料理を作ってくれたらしい。
「おはようペルさん。 帰ってたんだね 」
「お前が起きている間には間に合わなかったがな。 リーサから聞いたがずっと帰りを待っていてくれたらしいな 」
彼女は俺の前にお盆を置いてくれる。 お盆の上には白米と味噌汁と焼魚。 魚は見たことのないグロテスクなものだが、ちゃんとした和食が並んでいる事に驚いた。
「どうしたのこれ…… ペルさんが作ったの? 」
昨日のリーサの力よりこっちの方がビックリだ。
「日本という国はこれが朝食の定番だと彼女に教えてもらってな、手伝って貰いながら作ってみたのだが 」
「お姉さまから、ハーデス様に立ち向かったご褒美だそうですよ? 旦那様 」
対面キッチンの奥からリーサが顔を出した。
「その…… 旦那様って呼び方はどうかと思うんだけど 」
「彼女は私の従者だ。 夫であるお前の従者と言っても間違いではないだろう? 彼女が呼び方に困っていたのでな…… お気に召さなかったか? 」
そう言ってペルさんは俺の隣に座りピトッと肩を寄せてくる。
「それよりも食べてみてくれ。 味はリーサのお墨付きだ 」
俺の指の間に箸を押し込み、ペルさんは目を輝かせながら俺の感想を待っている。 朝はあまり食欲がないのだが、とりあえず味噌汁を一口。
「旨っ! 」
味噌と鰹の風味がちゃんと生きていてしっかり味噌汁だ。 続いて白米を一口…… うん、米の甘味を感じる。 ウチの炊飯器ってこんな旨く炊けたっけ? 旨くて箸が止まらず、次に苦手な焼き魚に手をつける。 冥界で獲れる魚だと言うが、皮の焦げ目が香ばしく身はサバのような感じでこれまた塩加減が旨い。 あっという間に完食してしまった。
「美味しそうに食べてくれると作った甲斐があるものだな…… フフッ 」
ペルさんはとても満足気な笑顔だ。 少し照れているのかその表情がまた可愛い。
「旨かったよ、ありがとうペルさん。 よく和食なんて作れたね? 」
「彼女のお陰だ。 戦闘には向かないが、身の回りの事なら何でもこなしてくれる 」
「ありがとうリーサ 」
リーサは顔を赤くしてキッチンの影に隠れてしまった。
「それにしても、お前は男だな 」
「え? 」
「冥界や天界にもたくさん人間はいるが、今までに人間が自分の意思であやつの前に立ちはだかった事など見たことがない。 じゃんけんとはいえ勝負を挑む姿…… 側で見ていて鳥肌が立ったぞ 」
チビってましたがとは言えず。 頬を赤く染めて嬉しそうに話すペルさんは美しいというより可愛く見えた。
「私も感動しました! 無謀と思ってましたがあのハーデス様相手に恐れもせず、策まで練っていたんですから! 流石お姉さまの旦那様です! 」
はは…… ビビりまくって唯一運で勝てそうな勝負に持ち込んだんですがとは言えず。
「そうか…… 力を持たないがゆえ、力に頼らず頭脳で勝負する人間こそがもしかしたら最強なのかもな 」
いえいえ…… あの冥王をビンタで一閃し、正座させて説教するペルさんこそが最強なんじゃないでしょうか……