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くノ一だったのか。
なるほど。澱んだ空気の中でその瞳だけが温かい。それにしても、十兵衛を見つめ返す目が潤んで見えるのは錯覚なのだろうか。気にかかる。
さり気なく矛先をずらしてみた。
「あまりに古い銀貨ゆえ、もの珍しさもありましょう」
「いいえ。わたしは、決してそのようなことを申し上げているのではございません」
くノ一はさらに瞳の潤みを強くさせた。「この銀貨は、修道士さまのものかと……お聞きしたかったのです」
「もし、そうだと言えば――謂れを教えて頂けるのであろうか」
数呼吸の間を置いて、くノ一が言う。「知りとうございますか」
むろん知りたい。十兵衛は肯いた。
「その前に、祖父が見つけたというのは……修道士さま……あなたのことなのですね」
祖父? 十兵衛には、くノ一の放った言葉の意味が分からなかった。急に声が上ずりだしたし、語尾も完全に裏返って聞きづらくなったせいもある。
「私は、そなたの祖父を存じ上げない」素っ気なく言った。
「では、手前が代わりに説明させてもらいます」
くノ一の昂ぶった感情に業を煮やしたのか、横から忍びが割って出た。「申し遅れましたが、手前は飛騨の風といい、先刻からご存知のように乱波です。故あって澳門に来ましたが、先ほど官邸の様子を知らせてくれたこの者の祖父が息を引き取りました。しかし死ぬ間際『銀貨の継承者を見つけた。悔いはない』と、伝えてくれたしだいです」
「すると、あの老僧は――この女性の祖父だったのか」
「御意」と飛騨の風は答え、短く補足する。「そして頭目の娘でござります」
「頭目? それは王直殿のことであられるか」
「さよう。今しがた別れを告げてきました」
何と! 十兵衛は言葉を失いかけた。それはぼやけた点でしかなかった老僧と王直が、はっきりとした形で繋がりを見せたからである。
だが銀貨を手にするくノ一の驚きようは、十兵衛のそれを遥かに上回るのだろう。今もって口を開けずに考え込んでいる。いや、というよりも何か重大なことを話そうとして躊躇っている、といったほうが正しいかもしれない。
「そなた、名は――」十兵衛は目線をくノ一に向ける。
「麻利亜、です」
くノ一は十兵衛に銀貨を手渡す
「もし差支えなければ、この銀貨の謂れを聞かせてもらいたい」
「それは……」
くノ一は口ごもり、風を見た。
「御免、船を待たせています」
下駄を預けられた感じの風は、半ば意識的に辺りを気にかける。「追われる身。すぐにも乗船せねば、我らだけでなく乗組員の生命にも危険が及ぶことは必至。その答は堺で必ず」
「堺? 話の流れから――倭寇、平戸だとばかり思っていたが、堺であったか」
「つくづく勘の良い御仁でございますな。だとしてもお教えできません。ですが、縁あらば堺で了斎どのを訪ね、風の行方をお聞きください。何らかの答が出るでしょう。もちろん修道士さまの御尊名が必要です」
「私は流浪の修道士、名前を捨てている」
「それは異国の地でのことでございましょう。帰国すればそうもいかないはずです」
「さもありなん」
なるほど。人にものを尋ねる以上、自らの素性を謙虚に名乗らねばいけないだろう。迂闊だった。
「私は土岐明智、兵衛尉下総守光綱の嫡男で、明智十兵衛光秀と申します。落城後、叡山に身を寄せましたが仏法の精神を放擲してしまった僧侶を見限り、イエズス会で修道士の修業をしています」
「おお!」
風とくノ一が同時に驚嘆する。それでは……と目を輝かせ、身を迫り出したくノ一を押しとどめ、風が言った。
「新たな追手の足音がします。募る話をしたいところですが、御免。必ずや堺でお会いしましょう」
くノ一も「では堺で」と言葉を残し、風に続いて坂を下っていく。十兵衛は二人の姿が見えなくなるまで凝視し、足音が消えるまで耳を澄ませていた。
しかしなぜ、くノ一はこの銀貨に動揺したのだろうか。そして飛騨の風はそれを明言させるのを避けたのだろうか。名前までも。帰国を明日に控え、十兵衛の疑問は膨らむばかりであった。
二人が下っていった崖下から風が噴き上げてくる。上空にも風が舞い出したのだろう。雲の切れ間に妖しく光る星が覗けた。
もしかしたら天狼星なのか。ふっと十兵衛はそう思った。