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――深い哀しみから謀反を起こす。
俄かに信じ難いものの、十兵衛にとって脈動的な言葉だった。幸い、名前だけなら王直を知っている。海賊だ。とはいっても任侠の徒であり、礼節を重んじる真っすぐな人間と聞く。つい先頃、明王朝から倭寇討伐の要請を受けたポルトガル商船に追われた挙句、胡宋憲に捕えられ、ここ澳門の地下牢に閉じ込められたと伝えられている。
「パードレ。私は今から総督府に行き、王直に会いに行こうと思っています。できたら先に、お戻り願えませぬか」
だがビエラは、十兵衛の要望をぴしゃりと撥ねつける。
「素性の分からぬ老人の戯言です。真に受けないほうがいいと思いますよ。それにイルマン、あなたでは無理です。いくら修道士といっても日本人、しかも面会相手は倭寇の頭目、奪回しに来た仲間だと思われるのがおちでしょう。まして官邸街へ行くにはポルトガル商館を通り抜けなくてはなりません。おそらくそこで、あなたは哀しい現実を見せつけられるはずです。わたしが参ります」
哀しい現実?
たぶんそれは日本と澳門を行き来する奴隷船のことだろう。多少とも政治の安定している明王朝と違って、今我が国は群雄割拠する戦国時代。とうぜん勝つものもいれば負けるものもいる。そして勝者は武将から足軽に至るまで、勝者の権利として敗者の財産を根こそぎ略奪する。
だが、そのお零れにありつけない最下級の雇われ兵たちは、近隣の村々を襲って金品の略奪、強姦、奴隷目的の人狩りに励む。従って、その兵たちに売買された若い女たちが堺を経由して、ここ澳門に連れてこられているのだ。
けれども、たとえそれを目の当たりにしたところで、残念だが、今の十兵衛に女性たちを解放する力などない。単身、素手で虎の巣穴へ入り込み、無鉄砲に戦いを挑むようなもの。悲しいが力不足だ。
だったら十兵衛を行かせないためのこじつけだろう。その証拠に、ビエラの目は少しも十兵衛を見ておらず、心も遠く総督府の地下牢に飛んでいるようだった。
「なぜ、かように拒絶するのでしょうか。パードレ、あなたは何か私に隠していることが、お有りなのでは」
突如、脳裏に絡みついてきた銀貨と聖槍と謀反という言葉。なぜか目に見えぬ糸で繋がっているように思える。だからこそ、どうしても王直に会いたい。会って、封印の意義を知りたかった。
だが十兵衛の問いに、ビエラは黙したまま答えない。そればかりか一礼をすると、すっかり暮れた闇の中に姿を消した。
ぽつねんと取り残された十兵衛は、やむなく一人で修道院へ戻る。ビエラの消えた先、ポルトガル商館やら官邸の立ち並ぶ石畳の路とは別方向である。支那人地区ほどぬかるんでいないが砂利まじりの悪路であることに変わりはない。道の両脇に樹木や雑草が生い茂っているのがせめてもの救いだろう。
そして生活ぶりは中心地にある教会と比べると徹底して質素だ。貧しい支那人地区と比較しても慎ましやかだと思う。贅沢とは一切無縁の食卓。通常は敷地内で栽培された野菜スープにパンだけなのである。稀に豆スープが出るときもあるが、いずれにせよ申し訳程度。それでも神に感謝をして粛々と食事をする。
それにしてもと十兵衛は思う。正面は修道院へ続く砂利道。右手にポルトガル商館や官邸が立ち並ぶ石畳。後ろは先ほどの貧しい支那人地区のぬかるんだ悪路。そして左にはわりかし裕福な支那人たちが暮らす、所々石畳の敷かれる舗道。門構えもしっかりしているし塀もある。
じつに顕著に区分けされているのだ。
おそらく何十年、いや何百年経ってもその区分けは変わらないだろう。多少の入れ替えがあるかもしれないが、貧民街の住人が裕福な支那人街を飛び越えて、いきなり官邸街に住むことは有り得ないはずだ。根本的な政治を変えない限り。
日本も然りだ。
変わってほしい。だが、そのためには無益な国取り合戦に終止符を打たねばならない。それを十兵衛が為すには奇跡が起きない限り無理だが、どうせ種を捲くのならそんな大きな種を捲きたい。それが漠然と海を見ながら感じていたことに違いないと確信した。
いや今、そのきっかけにもなりそうな小さな種を胸に捲かれた気がする。
あの老僧が何者なのか知る由もないが、齎された暗示は、帰国を明日に控える十兵衛にとって大きな意識の変革を促すものだと気づかされた。
衣の中に手を入れ、紐で括られる銀貨を握りしめた。伝説の皇帝、カイサルの肖像が描かれた古代ローマ銀貨。これこそが十兵衛をローマへ行き着かせた一子相伝の家宝である。しかしなぜ我が一族は、脈々とこの銀貨を伝承させているのだろうか。
「待て! 逃がさんぞ」
そんんな疑問を脳裏に浮かばせ、分岐点を通過したときだった。俄かに騒がしい支那語による叫び声が聞こえた。ばたばたと複数の殺気立った足音も耳に入り込む。
さては捕り物か。
無意識に十兵衛は、木陰へ身を隠して様子を窺った。
まず一人の男が現れた。続いて、もう一人。二人とも薄い布地で仕立てられた藍色の装束に身を包み、顔を頭巾で隠している。片方が背に大刀を括り、一方が腰に小刀を差している。そして双方ともに肘まで覆う手甲をし、足には地下足袋を思わせる装具を履いていた。
これは――忍びの装束? よもや日本人なのか。