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 修道院へ向かう途中の貧しい支那人地区を二人で歩いていく。霧雨のせいもあるが、この辺りは家畜の糞なのか泥なのか判別できない道が延々と続いている。十兵衛とビエラはときに水溜りを飛んで避け、衣の裾をたくし上げながら悪路を進んだ。

 澳門の中心、明王朝の役人街やポルトガル人居住区の煌びやかさに比べ、ここ支那人地区はその影を嫌というほど映し出している。道ばかりでなく、通りすぎようとする民家の窓から怒声が聞こえる。早口で言い返す甲高い女性の罵声も耳へ入り込んでくる。ぐずる幼児の鳴き声も響く。貧しさゆえの風景なのだろう。いつものことながら、十兵衛はやりきれない思いにビエラと顔を見合わせ胸の前で十字をきる。

 しかしそれは、ここ澳門に限ったことではない。ゴアにしてもそうだったし、ポルトガルにしてもローマにしても同じだった。華やかな通りを一歩裏に進むだけで、どこも糞尿にまみれていた。だから密集した地域に閉じ込められる貧乏人は総じて心を卑屈にさせる。人の心も、光が当たらないと黴が生えてしまうのだ。

 十兵衛はそんな暗澹とした気持ちを引きずりながら、貧しい支那人地区を抜ける。そうして微かに丘の上の修道院を捉えたとき、ふっと木陰に佇む僧と目が合った。いや目が合ったというより、放たれた視線を受け止めたというほうが正解なのだろう。気づくと僧は、瞬きを一切せず十兵衛を凝視していたのだった。

 有に八十歳をすぎようとする痩せた老僧。衣は所々破れ、埃にまみれている。おそらく見てきた現実があまりに儚いものであったのかもしれない。眼光は憂いを超えて空虚だった。

       

「待たれよ、修道士!」

 その老僧が息づかいも荒く、片言のポルトガル語を駆使して叫んだ。前を行くビエラが怪訝そうに振り向き、十兵衛と同時に足をとめる。

 だが老僧は、ビエラに目もくれず言葉を続ける。「そなたは深い哀しみから、謀反を起こすだろう」と。

「何のことでしょう――」

 十兵衛は不可思議な想いで尋ねた。あまりに突飛なことだったが、なぜか謀反という言葉に奇妙な感情が湧き立ったからである。また自身、根拠はないが、それが為すべき大事なことに連結するような気にもさせられた。

 ならば問い質せねばなるまい。

       

「理解しかねる言葉です。予見とも言い掛かりとも受け取れますが、理由があるなら聞かせてほしい」

 すると老僧は、それまで空虚だった眼光をとたんに険しくさせ、ずんずん歩を狭めてくる。

「銀貨が三枚見える。大いなる意思によって赤く染められた銀貨だ。そして天狼、とてつもない光だ。正義であり悪、光であり影である槍を所持せんとしている」

 銀貨、天狼、槍? 漠としすぎて確たる繋がりを掴めないが、呼び起される記憶がないこともない。十兵衛には思い当たる節が少なからずあった。

 まず槍。もしかすると、土岐一族に伝わる血吸いの槍のことなのかもしれない。

 しかしすでに返納している。

 ならばもう一つ、銀貨。落城の折、確かに父から手渡された古い銀貨を一枚持っている。しかも老僧の言うように赤く染められている。だがそれが三枚あるとは誰からも聞かされたことはない。謂れも。

 何を言いたいのだ?

       

 不可解さを感じ、一瞬、十兵衛が言葉を呑み込むと、横からビエラが老僧へ擦り寄った。まるで知己のように話し出す。

「じつに興味深いことを申される。確か官邸で、胡宋憲殿と懇意にしていた僧侶でしたかな」

「そなたはイエズス会の司祭か」ようやく老僧がビエラに目を向ける。「一言弁明しておくが、胡宋憲とは親しくしたことはない。むしろ親しくしているのは王直のほうである」

「ほう、王直? 倭寇の頭目のことですな。では、その王直が槍に関する情報を持っているのでしょうか」

「なぜ、そなたがそれを知りたがる。手に入れ、この世をイエズス会のものにしようとでもいうのか」

 老僧は冷笑した。「ふ、では法王も嗅ぎつけたのだな。聖槍の在りかを」

「おお、やはり――それを。僧よ、あなたは何者なのです」

       

 聖槍。その槍のことは聖ザビエルから何度も聞かされたので覚えている。クリストの死以降、人々の関心が聖杯に向けられてしまったことから、比べると存在は薄いが、持つべき者が手にすればこの世を支配できるという聖具。確か鋼を主とする黒ずんだ灰色の穂先で、二枚の刃を銀の針金で固定されているという。表面には金や真鍮でいくつもの十字架にも似た紋章が施されているらしかった。

 もちろん特異なのは十字の紋章ばかりでなく、刃の溝に刻まれる謎めいた楔だろう。楔に――ランケア・エト・クラヴィス・ドミニ(主の槍と楔)と刻まれていると聞いた。

 持ち主はローマ百人隊長、ガイウス・カシウス。通称ロンギヌス。

 神の子が現れて消えるまで、ロンギヌスは総督の命を受け神の子を追い続けていたらしい。といっても殺す機会を窺っていたのではなく、ただ単にじっと見守っていたようだ。しかしそこに三年近くの時間が存在するのであれば、二人しか知らない葛藤や情けが生まれていたかもしれない。

 だから神の子は旅立ちをロンギヌスに託した。

 ロンギヌス自身も、強い憤りを仲間の兵士やユダヤ人に感じていたに違いない。それは武士道でいう介錯だろうと、聖ザビエルは十兵衛に言った。そして槍の意義も伝えたのではないかと。

 思い起こした記憶がふっと霞むと、ビエラに返答する老僧の声が耳に入り込んでくる。

「言えぬ。だが胡宋憲に会い、王直を捕えた真意を聞けば納得するだろう」

「つまり、王直が聖槍を日本へ持ち出した。そういうことでしょうか」

「愚かな。どうやらイエズス会というのは、短絡的に物事を結びつける組織らしい。なぜ覇王クビライが執拗に日本を攻めたのか、なぜ急に衰退してしまったのか、それを考えれば分かりそうなものだと思うが」

 ビエラが押し黙る。十兵衛は老僧とビエラを交互に見つめた。胸中は複雑だ。唐突な老僧もそうだが、普段温厚なビエラの見せる慌てぶりが尋常でなかったからだ。

       

 ビエラは司祭、欧州の大学を優秀な成績で卒した宣教師。見知らぬ東方への布教も当然の事と受け止め、たとえ涯の地であっても骨を埋める覚悟で国を出たはずだ。だから槍がどこにあろうと関係あるわけがない。

 ならば、ビエラの――この慌てぶりは?

 もしかしたら老僧の言うように、法王から布教にもまして密命を託されてきたのか。一介の小部族の長でしかなかったクビライが、漢民族を倒し絹の道を制して、そのうえ欧州まで支配を広げたのだ。必ずやそこに槍の力が潜んでいる、と感じ取るしかなかったのだろう。

 それはザビエルも気にしていた。ということは、ポーロ兄弟を元へ派遣したグレゴリウス十世の真の目的は、完全に聖槍の行方となる。

       

「お願いです老師。聖槍が、今現在どこにあるか教えて頂けないでしょうか」

 裏付けるかにビエラが老僧の手を取り、縋り付くように頼み込む。が老僧は、素気無くその手を払う。

「残念だが、それ以上のことは知らぬし言えん。しかし槍の力は強大だ。ひとたび野心のある男に渡れば、並大抵の力では太刀打ちできないであろう。必ずや覇権を握り、罪のない大量の人間が殺戮されることになる」

 明言すると老僧は、十兵衛に向き直り「修道士よ。そなたの手で封印させるのだ」と、意味深な言葉を残して立ち去った。


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