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一章 澳門の雨 1

 港に停泊している南蛮船が霧に霞んでいる。暮れはじめた薄墨の海面にどんよりとした影を映し出している。

 永禄二年(一五五九年)澳門の地。黒髪を肩まで伸ばした修道士十兵衛は、松の木に凭れかかり食い入るように東方の海を見つめていた。

 日没間際には、こうして毎日のように海を眺めにやってくる。それが郷愁からくるのかわからない。しかし夕暮れの澳門は、それほど心を侘しくさせるものがある。

「イルマン、また海を見てらしたのですか」

 不意に背後から、聞き慣れた声がした。無防備な足音が近づいてくる。

 振り向くと、黒い外套を羽織る司祭ガスパル・ビエラが柔和な笑みを覗かせていた。「この海を隔てた先に、あなたの故国があるのですね。出航を明日に控え、さぞかし感慨深いことでしょう。しかし霧雨といえども油断は禁物。濡れれば風邪をひかれますよ」

 十兵衛は答えず、無言で会釈を返す。そしてまた海へ顔を向ける。視線の先は降り続く霧雨のせいか、先ほどより一段と暗さを増している。空と陸地の境をぼかせ、どこまでが海か陸なのか確認できないほどに。

「修道士にとって、日本は何年ぶりになるのでしょうか」

 背に、ビエラの穏やかな言葉が張りつく。

       

 そういえばどれぐらいの月日が流れたのであろう。十兵衛は海を見つめながら頭の中で指を折った。三年、いや四年か。考えればいたずらに時を過ごしてきた。これでよかったのか、判断は間違っていなかったのか、様々な思いに心が振れる。

 幼い頃より叡山で修業を積んだ。宗教学を身に着け、後に諸国を漫遊し、軍学、兵法学、築城学を修得した。のみならず火薬の製法と射撃術を学び、渡台して鉄砲の製造技術も習熟した。遠くローマへも行き、西洋流の戦術も頭に叩き込んだ。そればかりか知識にとどまることなく剣技も磨き、免許皆伝の域に達した。なのにそれらを生かすことなく永い異国暮らしが続く。

       

 自らが下した決断、悔いているわけではないが――日本が懐かしい。

 十兵衛はビエラに向き直り、野心に燃え、直情的ともいえる日々を思い出しながら言った。「渡台した際に、我が国に伝わる銃が欧州では使い物にならないほど旧式のものだと知り、それをこの目で確かめようと、ローマ行きを決めたのが二十七歳のときでした。以来、早いもので四年になります。おかげで、このようにポルトガル語が堪能になりました」

「四年、そうですか。さぞや故国も変わられたことでしょう」

「いいように変われば嬉しいのですが、伝え聞く情報は乱れたものばかり。胸が痛みます」

「しかし我らは、そのために種を捲きにいくのですよ。民衆の心が、いつか花を咲かせ、実を結んでくれることを望んで」

 ビエラが同意を求めるかに十兵衛を見つめてくる。頷こうとするのだが、なぜか素直に頷くことができず言葉を返せない。

       

 種を捲き、その種が実を結ぶのには、いったいどれくらいの年月を要するのであろうか。気の遠くなる作業だ。十兵衛は三十一歳、若くはない。果たしてこの目で捲いた種が花になるのを見届けることができるのか。実を付けるのを見ることが可能なのだろうか。

 そうなれば嬉しい。本望だ。

 だが仮に見ることができても、ほかに何か堪らなくすべきことがあるような気がしてならない。

 ローマで戦術を学ぶにつれ、逆に人の命の尊さを知った。いっそのこと得度して仏門に入ろうかと思った。しかし叡山にしても本願寺にしても武士のごとく武装し、平然と肉を喰らうどころか女人を襲っては姦淫し卑俗な行為に明け暮れていた。名のある高僧にしても同じことが言えた。稚児相手に常軌を逸していたのだ。

 完全に仏法の精神を忘れてしまっている。

 悩んだ。だから、知己だった聖ザビエルとゴアで死の再会したとき、彼らの慎ましやかな姿に胸を打たれ、一も二もなく洗礼を受けたのだ。

       

 しかし、空しい。

 おそらく年老いた母と妻子を故郷に残し、かつ一族の無念を否定する生き方だからなのだろう。また受けた恩義、総領としての期待、それらの想いも台無しにしてしまっている。

 性急すぎたのか。だとしても、今から大事を為すには齢を取りすぎている。焦燥感ばかりが募る。

「ところでイルマン。あなたは修道士でありながらイエズス会に所属されているわけではありませんね。それはいったい……どういうことなのでしょう」

 穏やかな表情の奥に何かを探り当てようとする目がある。たぶんずっと疑問に感じていたに違いない。いくら国家の後ろ盾があるとはいえ、異国での布教の難しさを実感しているからだろう。例外があってはいけないのだ。

「長崎でザビエル師とお会いしたとき言われたのです。『いつか現実に悲観して、洗礼を受けることになるかもしれませんが、それはあくまでも精神修養の一環と考えてください』と。また『あなたは会のために身を捧げるのではなく、国のため、民のために身を捧げるべきです。そして修道士としての修業は、為すべきものが見つかるまでの過程でしかすぎないでしょう』とも」

       

「ほう、為すべきもの? ではザビエル師には、イルマンの未来が見えていたことになりますね」

 ビエラは顎へ指を持っていき、怪訝そうに宙へ視線を預けたが、思い直したかに唇を引き締める。「しかし京で将軍と謁見するには、元武士であるイルマンの力添えが欠かせません。頼みますぞ」

 無論です。と答えたものの、神の教えを広めるために将軍の権威に縋るのもどうかと思った。まして今の将軍は飾りでしかない。兵力も微少だし、一地方の小大名から攻め込まれれば逃げるしかないほど弱体化している。それどころか、その日の賄に窮するぐらい脆弱しているのだ。いわば風前の灯火的な神輿。担ぐ者たちの思惑によって都度左右される存在。蔑にされ、火を消されるどころか台座ごと壊されてしまう可能性だって大いにある。

 救いは、義輝公が平和を愛する仁君であるということだけ。

「春とはいえ、澳門の夜はまだ寒い。さ、遅くならないうちに戻りましょう」

 そんな胸中を知ってか知らずか、ビエラが肩に手を乗せてくる。十兵衛は応じた。断る理由なんてどこにも見つからない。


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